野宿旅をしているとき、昼間の日差しが強いときは図書館にいる。日中は図書館で本を読んだりものを書いたりして、日が落ちると野に戻って眠る。これが野宿旅の基本的なルーチンだ。でも移動を繰り返しているんで、ひとつの本を読み切れることはそう多くない。
この本は読み切ったもののひとつ。サマリと感想を書く。






筆者は一年とちょい、お金をまったく使わない生活を実践した。その記録を綴った本だ。カネなし生活のために何ヶ月もかけて準備をした。お金の必要ないトレーラーハウスを用意し、自家発電の仕組みを自作し、暖房を作成した。もちろんこの準備にもできるかぎりお金をかけないよう力を尽くした。使うコンピュータのOSも、オープンソースの Linux を使うのだから念が入っている。

筆者はお金に支配された文化を抜け出すことを志している。お金は生産者と消費者との間に断絶を作った。その断絶が破壊的な消費を生んでいる。筆者はそんな世界のありかたに疑問をもっているのだ。そんな疑問の中で生きていくことはできない。だから実践してしまおうというわけだ。頭と心と手の間に矛盾が少ないほど、正直な生き方に近づく。この考え方を筆者は応用精神主義と呼んでいた。これは大いに賛成だね。矛盾が多い状態が、俗にいう「自分に嘘をついて生きる」ってやつだろう。

カネなし生活の生き方は、おもに農耕、採集、交換、フリーガンだ。そして物資とエネルギーの自作。そんな生活にはもちろん、大工、栽培、パーマカルチャー的設計、医療、サバイバル等のスキルが必要だ。ただしそれは二次的スキルに過ぎない。自然環境と調和したカネなし生活のための一時的スキルとは、肉体的健康、自制心、生けるものへの配慮と礼節、他者に与え、分かち合う力だ。現に多くのスキルや助けを、筆者は他者から分け与えられている。
「カネなし」を実践している人は多くおり、しかしその程度や環境はまちまちだ。しかしかれらに共通するのは、分かち合いという行為を通し、同じ地域の人々に友情が芽生え、思いやりと寛容の心が金銭欲に勝つことである。

自己規律がもちろん必要とされる。自己規律のすばらしい点は、人生の一場面で発揮できていれば他の局面にも簡単に応用できるところだ。

お気に入りの時間は豪雨のときだという。雨音がシェルターを叩く音と、薪の音。自然との距離が近くなるほどありがたみを感じる。野で自然が与える食べ物を摘み、星の下で寝ていると生きている感じがみなぎるそうだ。

筆者はもともと気の強いところや、自分の考えを他者に強く押し付けるところがあったそうだ。だけれど分かち合いの生活を通して、みんなに理解してもらうには、自ら実践し、情報を提供するだけでよいと気がついた。正しさを主張する必要はないのだ。



思考と試行に矛盾がない。実践力も行動力もある。この筆者は好みだ。読んでいて楽しめた。きっと文章と、訳も好みにあったのだろう。

自己規律についての思想もよくうなずける。ぼくの言葉では「やりとげる側の人間」と呼んでいる。何かひとつやりとげる人間は、何をやってもやりとげる。自己規律という言葉を使うとよりわかりやすくなってよいな。

筆者は「お金を使わず生きるすべを身につけるには、すでに形成された精神構造を変えないといけない」「いきなりカネなしに移行するのは困難だろうから、生活の一部ずつから始めていけばいい」というようなことを言っている。そのとおりだろう。
ただ、ここでぼくの意見を交えさせてもらえば、ぼくは完全な「カネなし」には反対だ。お金のシステムはどう考えても理にかなっており、お金のシステムなしには成り立たない素敵なものがいくつかある。もちろんこれは好みの話なんだけれど、ぼくはその中に好きなものがある。お金は捨てない。

彼が憎むべきはお金ではない。お金の生み出した断絶にころっと惑わされるエア・ヘッドどもだ。彼が棄却したいのはお金ではなく破壊的な生産活動である。まあ……きっと彼もそれはわかっていて、だがしかし彼らを批判し「正しさを主張する」のは世界を変えるためには愚策だ。よってお金に矛先をずらしているんだろうと推測する。ぼくは手前勝手に主張を述べているだけだけれど、自分以外を変えたい人は大変だ。

彼はもともとカネなし実験は一年間と決めていた。しかしその生活の並外れた充足感を知ってしまったので、一年間が終わるときには思い悩んだようだ。気持ちはよくわかる。自然のなかで自分のシェルターをこしらえ生活することの充実感は計り知れない。ホームレス旅と野宿旅の経験からそれはよくわかる。彼は自己で完結するカネなし生活者ではない。その文化、素晴らしさを人々に伝え、皆で実践していきたいと願っている。そのため彼は、カネなし生活で蓄えた経験とともにカネのある生活へ戻り、ネットやイベントを通じて目標への活動を続けているそうだ。

てかぼくもトレーラーハウスに住みたい……。