サマリと感想を書く。



無名の飛行士「僕」はエンジントラブルでサハラ砂漠に不時着する。そのときどこかの星の王子さまと出会う。

王子さまは超小さな惑星で暮らしていた。そこにはバラが咲いていて、王子さまは甲斐甲斐しく面倒をみていた。なのだが、バラはちょっとナルシ入ってるし見栄っ張りだった。王子さまはうんざりして星を出ることにした。いろいろ星々をまわり、王子さまはいろんな大人に出会う。誰もいない星を治める自称王様、礼儀を尽くして称賛されることがアイデンティティの男、指示通りガス灯をつけたり消したりし続ける男……。王子さまは「大人ってよくわからんことにこだわるなあ」と首を傾げながら星を渡り歩く。そして地球にやってきた。

星に残してきたバラのことがそろそろ気になってきた王子さま。だが地球にきて見つけたのは、よりによってバラの庭園だ。ええええ!? ぼくはこの世に一輪だけの、財宝のような花をもっているつもりでいたのに、実際はただのありふれたバラだったのか……。と大ショックな王子さまは泣いてしまう。

リンゴの木の下で出会ったキツネは、王子さまに「絆を結ぶ」ということを教えてくれる。絆を結ぶまでは、キツネにとって王子さまはほかの男の子たちと何も変わらない。いてもいなくてもいい存在だ。王子さまにとっても同じ。でも絆を結んだら、お互いになくてはならない存在になる。16時にそいつがやってくるなら、15時から楽しくなってくる。そうして生活に日が差したようになるんだと教えてくれる。
「いちばんたいせつなことは目に見えない」とキツネは教えてくれる。「きみのバラをかけがえのないものにしたのは、きみがバラのために費やした時間だったんだ」と教えてくれる。

王子さまと砂漠を歩くうちに「僕」は、子供のころ住んでいた家がとても好きだったことを思い出す。それは、その古い家のなかに宝物が埋められているという言い伝えがあったからだ。ガセかもしれない。でもそのことが家に不思議な魔法をかけていた。「家や星や砂漠を美しくしているものは、目には見えない」と「僕」も理解する。



お恥ずかしながら俺は『星の王子さま』をちとバカにしていた。「たいせつなことは目には見えない」? ハァ? 文脈次第でどうとでもとれること言ってはしゃいでんじゃねーよ。
スンマセンでした。読んでみたらスゲーイイ話だったよ。よくできた話だった。これも『デミアン』や『嘔吐』と同じで、作者が自分の思想を、もっとも効果的に伝わるかたちに構築した文学的装置の一種だと思う。つーか『デミアン』の亜系って感じか。あの話もこの話と同じで、「成長しきった自分」「成長する前の自分」のメタファーを用意して展開させている。『デミアン』ではそれぞれデミアンとシンクレール。『星の王子さま』ではもちろん、王子さまと「僕」だ。そして後者を前者へと移行させる今回の要素は、「心で見えるものがもっとも大事なものであると気付くこと」だ。

「心で見えるもの」とは具体的には、何かと絆を結ぶことで生まれる副作用のうちポジティブなものを指している。王子さまと絆を結ぶことで生まれる、「友達が来る前の1時間は超ワクワクする」とか「王子さまの髪の毛に似た小麦の稲穂が好きになる」とか「王子さまが星々のうちどれかにいて、そこで笑っていると思うと星空がみんな笑っているように見えるようになってハッピー」とか、そういうことだ。

ソレがいちばん大事かどうかは当然、人によると思う。だけどこの話は、それがいちばん大事だと主張するのが目的じゃない。目に見えない故ふだんは気づきづらい、日常の中の幸福に焦点をしぼり、読者に気づかせることこそ目的だ。それをこの話の構成は巧みに行っていると思う。だからすげえ感心した。



俺がこういう思想を他人に伝える上でもっとも大変だと思うことは、人によって思想を理解できるコンテクストや語彙が異なることだ。同じことを伝える具体例なのに、なぜか片方は通じて片方はピンとこない、ということはよくある。それは人それぞれアタマの中にある辞書や言語が異なるためだ。だからひとつの思想を伝えるためには、複数の具体例をもちいるのが効果的だ。それをこの作品はよく理解している。「何かと絆を結ぶと目には見えない様々なメリットがある」という思想を伝えるために、複数種類の具体例を時間差で繰り出している。
  • キツネが伝える、「友達ができるとこんなに生活が楽しくなる」論。
  • 王子さまが理解した、「ぼくのかけがえないバラ」論。
  • 「僕」の理解のきっかけ、「子供のころ住んでた家が大好きだった理由」論。
  • さらに、「砂漠が美しく見えるのは」論。
  • 「見上げた星々がみんな笑っているように見える」論。
各々が違うワードで理解することで、他人の理解法にはバリエーションがあることを示している。

俺は、他人とわかり合おうとすることはムダだと思っている。それは、相手とは使う言葉が違うからだ。俺も相手も用いるAという言葉が、彼我で意味が異なる。使用する言葉をひとつずつ吟味し、互いの理解を共通化していけば理論的には完璧な理解が可能だ。だがその作業をする際の議論でも次々と意味のズレが巻き起こる。だから不可能だ。俺は他人と分かり合う、対話を重ねるという行為に否定的だ。ムダだからだ。
言葉を重ねるごとに誤解が重なる。ゆえに仕方なく何かを伝えたい場合、言葉は少ないほうがよいことになる。10より5。5より1。結局沈黙が最適解となる。

こんだけずらずら書いておいて何言ってんだって話だよな。そのとおりだね!
けど、喋り好きだからこそたどり着く思想がある。