ウィトゲンシュタインはオーストリアの哲学者で、俺のフェイバリット・フィロソファーだ。著作である『論理哲学論考』を本屋でちょっと立ち読みして以来かれのファンで、たびたび伝記とか著作解説などを読んだりしている。今回もその一環で、伝記とウィトゲンシュタイン哲学解説がセットになった本を読んでみた。かれはわりとアクの強い人で、哲学と生活が一貫性をもつ……すなわち知行合一の人であるから(そういうところに俺は惹かれている)、伝記とセットになってることが多いんだよな。
伝記と解説だし、サマリーはやめて今回の読書で得たいくつかの知識をメモっとく。


・前期の代表的著作『論理哲学論考』の意図は?
ゴールを「哲学的諸問題の解決」、手段を「言語のはたらきを明らかにする」と定め、「なぜ言語の理解が哲学的諸問題の解決につながるのか?」を論証していくものだ。

・で、なんでなの?
哲学的諸問題は、言語の限界をちゃんと認識しないまま、限界の外側のことについて喋ろうとするせいで発生するものだ。なので、言語の限界をきちんと定めれば……つまり、どこまでが語りうることでどこからが語りえないことなのか分かれば、「語りうる」ことだけを議論しうる。語りうるってことは解決しうるってことだ。よって「言語の理解=諸問題の解決」という構図がなりたつ。

・言語の限界ってなに?
言い換えると思考の限界のことだ。思考はすべて言語で行われるので、そのイコール関係がなりたつ。「思考=言語」っていう理論を持っているかどうかで、ウィトゲンシュタイン哲学の理解度はかなり変わる。最初にかれの哲学を読んだときには、俺はたまたまそれを持っていたのですんなりファンになれたんだと思う。

・言語の限界の外側はどーすんの?
述べた通り、それは語ることはできない。ただ「示される」だけだとウィトさんは言っている。これに当てはまるのは、「倫理的、宗教的に大切なこと」らしい。俺は、「語りえないことがある」ことは同意するけど、なんで倫理宗教が持ち出されるのかよくわからない。俺は概論でいちおう宗教に関しては定義づけているので、宗教らへんは「語りうること」だ。

長い。三行で。
語りえないことまで語ろうとするからメンドくさくなる。
どこまでが語りうる(=言語の限界)のか定めたぞ。
その外側に関しては黙ってろ。

・後期の思想はどんなものだったの?
前期の思想をいっきにひっくり返す内容。前期の思想(言語の論理をちゃんと理解すりゃとにかくOK)には、「言語には単一の基礎となる論理がある」という前提を下地にしている。20世紀を代表する思想、原子論に影響を受けた考え方だ(=複雑なものでも、基礎的要素まで分析したら単純なものになるはず)。でもその前提に根拠ねーよなあ、ホントは、言語にはもっとたくさんの様々な性質があるんじゃね? というのが前期思想と後期思想の違い。
ぶっちゃけここからはさっぱり理解してない。言語の論理ってのが意味不明。分からないものはサマライズも出来ないのでここまでで。


ちと長くなってしまうので、今回は本書の中から前期思想と後期思想の外観だけさらっとまとめただけで終了。ほかにも面白い内容がいくつか……ラッセルの扱った「命題」に関する問題とか、『論考』の6.43にある「世界の境界」のハナシとか、言葉と意味の関係とか……あったけれど、また回を分けて書くことにする。


この本の著者、ウィトゲンシュタインを手放しに褒めるようなことはせず、ちょいと批判を加えていた。そのうち2項目に関しては承服しかねたので反論を書いておく。

・「哲学的諸問題は言葉の誤解から生まれる。言葉を正しく理解すれば問題は発生しない」というのはおかしい。良い、正しい、現実という言葉をきちんと考えたところで、実生活において善、真、存在について感じる哲学的諸問題がぱっと解決するわけない。
いやする。そりゃ0.1秒で解決したりしないだろうが。これらの言葉に付随する色々な「常識」的イメージ、誰かによって作り上げられた意味合いは、これらに関する問題を考えるときの妨げになる。そもそも善、真、存在というのは、「ただの善、真、存在」なのである。それをありのまま見据えることで、これらに、これまで感じていた問題など付随していないことに気付く。問題は見ているこちら側が勝手に作り上げるものだ。「常識」的イメージを払拭することから哲学(=思考をあきらかにする作業)は始まる。いや確かに、「始まる」だけであってその瞬間に解決はしないだろうから、まあ半分くらいはコイツの言ってる通りだと思うけれどね。

・ウィトゲンシュタインは哲学を治療だと考えている。つまり、説明的体系の構築ではなく誤りの消去を目的としている。そのせいでかれの作ったテキストはパッチワーク的であり、比喩と暗示に溢れ、解釈が困難になっている。
とりあえず『論考』の序文一行目を読むべき。「本書は、ここに表されている思想……ないしそれに類似した思想……をすでに自ら考えたことのある人だけに理解されるだろう。(中略)理解してくれたひとりの読者を喜ばし得たならば、目的は果たされたことになる。」だからこれは教科書じゃない。すでに考えたことのある人、仲間にとっては解説書めいた文章よりも、感覚的、メタファー的文章のほうが普通伝わりうる。ここでもコイツの言ってることは別に間違ってないと言える。解釈が困難なのは確かだと思う。だけど分かる奴には分かる。そしてウィトさんのテキストはそういう奴のために書かれたはずだ。


長すぎるわ。
もっとサラッとした感想を……こんな程度の感想文を適当に量産したいのに酷い長さになってきてる。