前回の強敵を読了したので、さっそく楽しい小説に入った。サマリと感想を書く。

ボンボンの19歳が儲け主義の社会にうんざりして、人のいないところへ行きたい、むしろそのまま死んでもいいや、とか言いながら松原(ちょろと調べた限りでは日本大学のそばみたい)をうろついてるところからお話はスタート。そこでキモいおっさんにつかまり、坑夫にならんかとスカウトされる。坑夫なんて最下層の仕事だが、死を覚悟している身であるから、暗い坑の中での陰気な仕事というのは自分の天職じゃねーかなと感じてホイホイついていく。
おっさんについて銅山に到着し、そこで坑夫たちと会うのだが、ひょろくて働いたこともない世間知らずだからナメられるわバカにされるわすげえことになる。「早くけえれ」。そして飯は南京米。クソまずい。寝ればトコジラミに食われる。嫌すぎる。
まあそれで実際に坑に入って性悪の坑夫に会って辛い思いをして「やっぱ坑夫はやめて華厳の滝に飛び込んで華々しく死ぬか」と決心したり、偶然性根のすげえ良い坑夫さんに会って「僕もこんな坑夫になりたいな」と決心したりさんざん付和雷同をやりつつ、結局は坑夫にはなれないことになる。これは気管支炎持ちだったからで、別にかれのせいというわけじゃない。でも飯場の帳付として五ヶ月働き、そして散々嫌だ嫌だと言っていた東京に帰った。おしまい。


前回の小説から随分間が空き俺も忘れかけてたが、文学はメタファーである。『坑夫』の物語は何をメタフォライズしているのか考えてく。結論としては、なんというか平凡だけど「自分探し」じゃないか? 自分探しってのは言い方をかえると生き方探しになる。儲け主義の社会、実家のごたごた、許嫁との関係、嫌気がさして出奔したが、これまでとは180度違う環境の銅山で過ごして「やっぱ僕はあっちだわ」ってなった。そんな話じゃないかねえ。この仮説が信憑性をもつには、何が「あっちだわ」と思わせたかを考えないといけないんだけど、それはあとにまわす。
この話を読んでて思ったのは、この青年、頭がノロすぎる。何かあるたびに考えを変える。半刻の間に「生きたい」「死にたい」すら変わる。こ、これは友達になれんわ、と思った。この一貫性のない右往左往について本文では「矛盾でも何でも、魂の持前だから存外自然に行われるものである」と説明している。これを読んだときには、あ、これまさに(前回の読書で学んだ)「物心二元論」の影響を受けた考え方だ、と頷いた。ちゃんと読書が身についてるな、とちょっと嬉しくなった。
閑話休題、そういうわけで心が死と生を彷徨った経験をした青年は自分が気管支炎持ちであることを知ってついに虚無主義みたいなものに目覚める(すべてのものに価値なんてない、みたいなもの)。いやこれもまたラッコの皮みたいな変化で、ホント影響されやすいなこいつ、とクスリときてしまったが。まあ、これが転機となって元いた世界の儲け主義、ごたごた、人間関係を新しい視点で見なおせたんじゃないかな。路傍の美しいタンポポの色が取るに足らないものに見え、あんなにムカついた坑夫の意地悪な顔がただの土人形に見えたというのだから、実家のごたごただって大したことないものに感じられたことだろう。今日我慢ならなかったものが一晩寝たらどうでもよくなってた、なんてよくある話だ。
この新しい価値観を、かれは、五ヶ月の銅山生活で自分なりに体系づけて固めて、もとの生活に戻った(生き方を見つけた)というのが俺の結論である。これが上で濁した「あっちだわ」と思わせたものだ。ちなみにこの説でいくと銅山に残る道もあったはずであるが、これは、当然のことながら街での生活のほうがラクだってことだろう。これはこの話で、会う奴会う奴が何遍も何遍も言ってくることである。「悪い事は云わねえから帰れ」と。それをしなかったのは実家のごたごたが嫌だったからであり、新しい価値観でその「嫌さ」がなくなったら、そりゃあ帰らない理由がないってものである。

というわけでこの話から得られる教訓は、ヤなことあったら環境かえてみ、ってとこかな。


この小説は1910年くらいのものだけど、そんなに読みづらくなかった。川端康成がヤバすぎたんだな。


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