久々の読書感想文だ。や、コンスタントに冊数を重ねていくつもりだったんだが、今回選んだ本は歯ごたえがありすぎた。だが何とか読みきったぜ。『小論文を学ぶ』は小論文を書くための技術と、下地となる基礎的な知識を解説している本である。ぶっちゃけ前者はサラッと読める内容なんだけど、後者の重さと密度が大きすぎる。この本で語られている「知識」というのは、近代から現代にいたる学問的パラダイムの変容についてだ。具体的には次項にサマリを書くけれど、二元論やアトミズムに代表されるモダン的世界観から、多元主義とかシステム論重視のポスト・モダン的世界観への変化がなんで起きたのか、あるいはなんで求められたのかが主題となっている。これは小論文出題の意図が「20世紀的『知』の理解ができているか」言い換えれば「お前、『今』を見ているか?」を問うことにあるからだそうだ。俺はまあ高校生じゃないし小論文を書く機会なんてないけど、かなり知識が増えたような気がしている。この知識が血肉となり教養と化すまでには、まだちとかかりそうだけれど。


ものごとの理解というのは、基本的には「言葉を知り」、「その意味を理解する」の二段階であるはずだ。言葉とその意味がわかれば、言葉同士を結びつけることができ、やがて結びついた大量の言葉同士が大樹のような様相を呈し、それが知的体系となる。俺が概論で目論んだのもそれだ。体系化とは、言葉の意味を確認し、言葉同士を結びつけていくことだ。
というわけでこの本のサマリを書くにあたってはこんなスタイルでいってみる。

モダン(17c~19c)的な思想
二元論物と心を分けて考える物心二元論が代表的。「この思想のせいでいろいろヤバイから脱却しようや」というのが近代→現代の移行を考えるときの大原則。ちなみにこれはデカルトさんが考えたもの。デカルトが全部悪い。
普遍主義二元論によって世界を人間と自然という風に分けたとき、人間の意識はランダムに変わるけど、自然世界は一意的に、普遍的に確定しているというやつ。こいつのせいで自然を大切にしようとかいう考えは生まれず、いま自然がヤバイ。
原子論世界の最小単位は原子だって話。その発想でいくと社会の最小単位は個人になる。個々人が自分の利益を考えて行動した結果が今の世の中である。
個人主義原子論と同じようなもん。これのせいで売春する女の子が「私の体をどー扱おうが勝手でしょ!」と言う。
啓蒙主義人間には動物と違って理性がある! 理性に従えば将来はステキになる! さあ、蛮人たちよ、理性の光に照らされろ! という発想で生まれたのが enlighten という単語だが、世界大戦が起きて「理性に従っていたつもりが結果これだよ」と見直された考え方。
ユートピア思想啓蒙主義的に考えると、過去を理性的に考察すれば、必ず未来は良い物になるはずである。そうはいかないのが歴史によって証明された。
パターナリズム父権(国家・教師・医者)が子供(国民・生徒・患者)を指導する、みたいな一方的な力関係。これが今日では崩壊しているのが学校の現状やインフォームドコンセントから覗える。

キーワードはもっと沢山あるけども書ききれんしこんなもんで。総括していえば、「個人の自由を尊重しすぎたせいで全体がガッタガタ」「この思想の発端となったのが二元論という考え方」「つまりデカルトが悪い」といった感じだ。

ポスト・モダン(20c~)的な思想 
多元主義二元論はすべてを二極化し、欧米が上で周辺が下、男が上で女が下、みたいな普遍的ルールを作り出す(これは優生学の考え方)が、多元主義のもとでは全てが相対主義となる。
脱中心化個人が一番大切、自国が一番大切、とかそういうのはナシ。これはネットの普及とかで促進されてる。
システム思考個人主義の逆。コミュニティ全体の利益を見てこうぜっていう考え方。

総括していえば、「個人のことばっか重視してたら地球環境とか社会とかヤバくなったからもっと全体の利益考えようぜ」というのがポスト・モダンの主流である。だけどそのとき問題になるのが、「私と公どっちを優先すればいいの?」という疑問だ。これは有名な「囚人のジレンマ」と同じ問題である。私をとれば短期的には得をするかもしれんが、最終的には全員そろって馬鹿をみるハメになる。そんなライアーゲームみたいな現状に、今日我々はおかれちまっているのだ。助けて秋山さん。
この問題についてこの本では、公私のバランスは対話によってとっていこう、とまとめている。誰かの独裁にしたらダメだった、かといって個々人がアトム的に動きまわってもダメだった。しかし時には誰かに強権を与えることも必要だし、また個人が自由に活動することも必要である。どちらかに覇権を恒久的に与えるのではなく、コミュニケーションによって覇権をやりとりしようってハラだ。この姿勢こそがポスト・モダン的であるというのが結論のようだ。
ちなみにどうやって人々の意識をポスト・モダン的に変えていくかってことについては、教育現場の改革を挙げている。この話題についてもなかなか楽しいことが書いてあったんだけど、ちと長くなるからこのへんで筆をおいとくことにする。

あとこの著者、あちこちで色んな人をディスってて面白い。知識人じゃなけりゃただのDQNだぜ、これ。


俺も大多数の人たちと同様、個人の考えが一番大事、マジョリティが無理やり従わせるなんて糞溜めの糞、という思想をもっていたので、それがいま現在時代遅れとなりつつある思想だと記されていたときはドキッとした。
たとえば俺が基本的に持っている考えとして、「人はみんな理性をもっている。みんな合理的にそれぞれ考えて動いている。それでもやることが違うのは、それぞれ好みがあるからだ。人にはそれぞれ好みがあり、それに合致するかたちで各々合理的に動いているから違うように見えるだけで、基本的には同じなのだ」というのがあるけれど、下線部がそれぞれ啓蒙主義(理性主義)・原子論・物心二元論とがっちり合致してやがる。これに気付いたときは思わず歯噛みした。自分が独自に編み出したと思っていた思想・哲学が社会の基礎的知(パラダイム)の影響を多分に受けていることを自覚したとも言える。むむむ。