引越しのゴタで読書を滞らせてたんだけど、ようやっと図書館にいけたぜ。サマリと感想を書く。本書は短編集だから色々あるのだけど、メインの『ダイヤモンドダスト』に焦点を絞っとく。



のどかな別荘地の病院で働く看護士の和夫くん。成績優秀な子どもで一度はお医者さんを志すものの、母親が肝炎で死に、親父さんは沢でコケて頭の骨折って半身不随になった。親父さんを放って医学部に進出することができず、彼は近くの看護学校を出て看護士になった。納得はしているけれど、都市で立派に知的な中流階級の家庭を築いている医者を見ると、羨望を感じた。和夫くんにも妻はいたが、肺腫瘍で死んだ。もう長いこと、親父さんと小学生の息子との生活だ。三十代だけどすっかり老けて、四十代で通じる顔つきになってしまっている。
とうとう親父さんが病院に入ってしまった。息子の送り迎えとか食事の準備とかちょっとタイヘンだが、たまたまカリフォルニアから帰ってきていた幼馴染の悦子さんがそれを手伝ってくれた。久々に会った悦子さんは素敵だが、和夫くんは口説くことかなわない。
親父さんの病室にはマイクさんという腫瘍持ちの宣教師がいた。ふたりは意気投合していたが、マイクの容態悪化に伴い親父さんのほうは退院となった。退院した親父さんは庭に水車を作りはじめた。和夫くんは「なんで水車!?」みたいな感じだったがある日マイクがその理由を話してくれた。昔親父さんが運転手をしていた鉄道が廃止の憂き目にあいかけたとき、客を呼ぶため森の駅々に水車を作ろうと提案したそうだ。それはかなわなかったが、マイクは彼の運転する電車にのって、水車を眺めてみたかったというのだ。親父さんは末期癌のマイクさんに見せるため、水車を作ろうとしていたのである。和夫くんも息子くんも悦子さんもそんな水車づくりを手伝った。けれど水車ができる前にマイクさんは亡くなってしまった。水車はまわったが、素人のつくったものだし、すぐにきしむようになった。ある朝に水車はへし折れた。そのそばで親父さんは亡くなっていた。
悦子さんはその少し前にカリフォルニアに戻っていった。和夫くんはしょぼくれた引き止め言葉をかけたが、悦子さんはきっぱり首を振った。



確かに俺好みの「成長済物語」には該当するのだろうけど、主人公に魅力を感じない。

この物語はいったい何を言わんとしているのだろう…。人の死を前にして冷たくなりつつもどこかダイヤモンドダストのように輝くカタルシスを感じる心を描いているのだろうか? 確かに、生き物の死というか、何かを永遠に失う瞬間っていうのは、自分の心が冷えて、けれど同時に「これでよかったんだ」と胸がすく思いがするよな。くせになる気分であるとも思う。そのえもいわれぬ気分を文章に落とし込みたかったのだとすれば、それは俺も理解できるぜ。モヤッとフワッとする気持ちをうまいこと文章にできたときの感動はそれこそ筆舌に尽くしがたいものね。

俺はそういう気分が結構好きだけれど、きっとこの作者さんはそうではないのかな。人の死とかに相対するたびに、たしかに輝きを感じるものの、それでテンションは上がらずただただ自分が年老いて元気を失うようなパーソナリティをもっているのかもしれない。だとするならば、主人公の和夫くんがしょぼくれているのも納得だ。

そんなところで、このお話は自分なりに理解できたといえるかな。『ダイヤモンドダスト』は、人の死とか何かを永遠に失うときの気分を「寒さ」とか「ダイヤモンドダストのような切ない輝き」でメタフォライズしており、それを受けた自分の姿をメタフォライズしているのが和夫くんの煤けた姿だ。うん、自分では決して実感できないものを想像力で理解できると達成感がある。

文章は綺麗ですごく読みやすかった。