読書感想文を書きはじめてから村上春樹を読むのははじめてだ。やっぱりワケがわからん…。でもワケわからんなりに筋が通るように考えてみた。あらすじと、考察を書く。


■ハードボイルド・ワンダーランド編
データ暗号化の革新的な技術、シャフリングが開発された。これは人それぞれがもつ独自の思考システムを利用したものだ。人の脳味噌をちょっと改造し、施術段階の思考システムを通常の思考システムとは別に固定しておく。その固定された思考システムを必要なときだけ稼働させ、それを通過させることでデータの暗号化をはかるというものである。しかし、それは素晴らしくグレートな方法ではあるのだが、誰にでもやれるわけではなかった。適性が必要だったのである。
その適性をもっていた「私」が主人公だ。かれはシャフリングの技術をねらう勢力や、それを守ろうとする勢力のあいだですっちゃかめっちゃか生活をかき乱されてしまう。かれ自身はシャフリングのスゴさとか適性のレアさとかまったく知らなかったので、いい迷惑である。
しまいには手前勝手な博士に脳味噌をちょちょいといじくられ、脳内の世界へと意識を吹っ飛ばされてしまうことになる。
ちょっと端折ってるけれど大体あってる。

■世界の終り編
記憶も経緯もぜんぶ失った主人公「僕」が、高い壁にかこわれたヘンな町へやってくる。そこには一角獣がいて、ふしぎな図書館があって、あやしい森があって……とてもファンタジーな場所である。「僕」はそこで自分の影をちょきちょきと切り離されてしまう。ファンタジー。よくよく調べてみるとその町は心を失った人々の町であるらしい。「僕」は影と合流し町を脱出しようともくろむ。しかし最終的に、「僕」は影だけを壁の外へ送り出し、自分は町に残ることに決めた。町のなかの人々に愛着をもったというのもあるし、何よりこの町や人々はかれ自身が作り出したものだから放り出して去れない、そういうのである。
影は町を出て、「僕」は残ることになった。
けっこう端折ってるけれど大体あってる。

適性がないとシャフリングをうまくやれない、というのは、シャフリング作業のたびに脳内の思考システムを使い分けるというのはとってもしんどいというのが理由だ。いっぽう「私」はもともと無意識下で確固たる思考システムを、普段使っているのとは別に、持っていた。そのためシステムの使い分けというような行動に慣れていたのである。これが適性だ。かれの、この隠された思考システムを映像化してみると、そこには高い壁でかこわれた町が見られたという。ただしそこに「僕」はいない。「僕」は意識を吹っ飛ばされたあとの「私」である(たぶん)。意識を吹っ飛ばされた「私」は記憶を失い「僕」になり、無意識下で自分が作り上げ営んでいた町へやってくる。ちなみに意識を吹っ飛ばされた時点で現実にある「私」は脳味噌もぶっ飛んでいる状態なので、最後に「僕」が町に残ったのは正解だったと思う。もし意識が現実に帰っていれば、ぶっ飛んだ状態の脳味噌に戻ってくることになるので、その、結構ヤバかったんじゃないだろうか。現実世界ではお友達が死んだ「私」を冷凍保存しておいてくれているので、いつの日か脳味噌が治ったころに出たら、生き返れるのかもしれない。
影だけが町から出て行ったことに関してはよくわからなかった。ぶっ飛んだ意識が、半分だけでも現実世界に戻っていないと肉体が完全に死んでしまう、とかかもしらん。


無意識下に世界がひとつ構築されているというのはとても感銘を受けた。俺自身も子供のころからずっと考えている物語とか、寝る前の妄想とかをするけれど、それはとても雑多なものだ。そういう人間の思考システムを「私」のと同じように映像化してみても、混乱し、混濁し、まとまりがなく、どれだけ手を入れて編集しても筋が通らないものが出来上がると作中で述べられている。けれど「私」のは違うそうだ。お話に登場した手前勝手な博士の分析によれば、極端に自己の殻を守ろうとする性向がそれを作り出したのでは、とかなんとか。

しかし、ほんとうに村上春樹の文章は整頓されていて、清潔でいい。大好きだ。気分が整理されていくのを感じる。きっちりしている。