タイトルのとおり、こちらは哲学入門書の体裁をなしている。まず「哲学ってなに」から始まる。その答えは、「誰もが関心を抱く問いについて考えること」。ここで著者は、「夕焼けの空を眺めて美について考えたり、肉親の死を前にして死について考えたり、どのように生きていけばよいのか、善とは何か、真の存在とは何か」と例を挙げているけども、これについては承諾しかねる。こういった高尚くさいテーマを例として挙げるから哲学がめんどくさいもんだと思われるのだ。俺が人に説明するときはいつも、朝目覚ましよりちょっと早く起きたとき二度寝をするか否か考えることも哲学だと言う。ただ、「誰もが抱く問いが対象なので誰もが哲学者と言える」というのはよくわかる。しいて言うなら、哲学の手段とか技術についてとくに探求している者を哲学者とか哲人と言う方が妥当かなあと。お釣りの計算は誰でもするが、誰もが数学者というわけではないから。まあこの程度は誤差だ。

こうして哲学という語のかたちを定めたあとは、比較的話題になりやすいテーマについて章を分けて解説している。生について、私について、死について、実在について、美について、などなど。哲学について関心がある人はたいてい、哲学って何なのか首をひねり、そして上に挙げられたテーマのどれかについて興味を持っているので、方向性を示すものとしてはよい構成だと思う。俺が気になった部分を下に書く。


九鬼周造の論旨、「哲学は生きた哲学でなければならない」「生きた哲学は現実を理解し得るものでなくてはならぬ」。
おおいに同意。現実の生活に活かせないものばっかりあーだこーだやってても、哲学がわけわからん学問だと思われるだけである。

道徳とは何か。カントによれば、「全ての人の人格のうちにある人間性を、単なる手段としてのみ扱うのではなく、同時に目的として扱うように行為すること」。
当然人は他人を利用しつつ生きるものだ。利用だけして、その他人の幸せを蔑ろにするのが「単なる手段としてのみ扱う」ということ。他人を利用し利用され、同時にお互いに相手の幸福を目的として生きていければイーネってことだそう。道徳の定義としてはなかなか妥当だと思う。
こういうような願いや希望を抱き、そのための努力を続けて生活することが、「よく生きる」ということではないかと著者は語っている。けども、「よく」なんていう主観の混じった生き方をひと通りにしている時点で俺はどうかと思う。よく生きるというのは、精神の充足を感じつつ生活することだ。人生に満足しながら生きることだ。そうでなければ、著者のいうようなものだけをよい生き方だとするなら、根っから反社会的にできている人間は決してよく生きられないことになる。そんなのは不公平だ。誰にとっても当てはまるような定義を考え出せないのであれば、「お互いの幸福」なんて語っても説得力はあるまい。

西田幾多郎の語、「純粋経験」=言葉で言い表される以前の事実それ自体。「事実には主語も客語もない」。
完全に同意すぎて頷くほかない。

ざっと読んだ感じ、九鬼周造さんって人と西田幾多郎って人の著作は楽しめるような気がした。ちょっと覚えておいて見かけたら読んでみようかな。