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小説家の多和田葉子さんが、ふつうの日記のかたわら特に言語に関することを綴っている日記。…らしいのだがマジか? 新書サイズにして200強ページ、その分量で元旦から4月上旬までの内容である。どんだけ書いてるんだ。びっくりだ。
ドイツを中心とした著者の生活と、その生活の端々で言葉について思ったことを奔放に書いている。俺は紀行文とかそういうたぐいの文章が好きだ。自分も旅をしている気分になる…とまでは言わないけれど、他人の生活ってのは存外おもしろいもんだ。面白かった部分を書く。
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著者は、言葉にたいする印象についてよく書いている。「外」という語には楽しさが感じられない。かわりに「野」はどうだ、とか。「肥えている」という表現には現代では否定的に見られつつある肉付きの良さを肯定する響きがある、とか。311のとき「炉心溶融」ということが騒がれたが、この言葉には焦りを感じない。同じ意味なのに「メルトダウン」には危うさがある。さらにドイツ語で「ケルンシュメルツェ」といった日にはもうヤバすぎる、とか(俺はここで爆笑した)。というのも、ケルン(核)という語に核を巡る対立の歴史や危うさが刻まれているからではないかと著者は考えている。たしかに「炉心溶融」は身近ではなく、歴史がない。
俺もこういった、あっ、この言葉は肌触りがいい、とかはしばしば感じるが、それはいつの間にか忘れている。こまめにメモをとっても面白いかもしらない。
著者は日本語とドイツ語両方で文章をかく人なのだが、それゆえ日本語の発想でドイツ語の文章をかくときの問題点について書いている。たとえば動物が主人公の物語で、語り部の動物が喋るシーン。「ぼくの手が…」とコイツが人ではなくて動物であることをボカして書きたいんだけど、ドイツ語で人間の手と動物の手は違う単語なので、書いたらすぐバレちゃうのである。
こういうことは俺もルーマニア語を使うとき感じる。女の子と遊ぶ予定があるとき、彼女から、誰と遊ぶのか追求を受けるとする。「友達さ」、なんてさらりとかわすのが模範解答だけど、ルーマニア語ではそうはいかない。男友達と女友達で単語が違うからだ。女の子と遊ぶのだとすぐバレてしまう。男友達の単語を使えば、もし見つかったとき嘘つきの誹りを免れない。
日本語を英語にするためには、日本語の言い方をこまかく砕き、日本語的言い回しをすべてふるい落として意味だけを残し、それを正しい語順の英語に託して相手へ届けなくてはいけない。そういった努力を繰り返すうち、母語である日本語にも透明性が表れてくるかもしれない。こんな文章があった。これは俺もずっと感じていたことだったけども、うまい表現を見つけられてなかった。「透明性が表れる」という言い方はすごく腑に落ちる。
具体的にいうと、文章をだらだら長くせず短くするよう心掛けるようになったり、副詞は文章のなかのもっとも関係がふかい語のそばにおくよう気を遣うようになったり、ということだ。俺の場合は。
少年刑務所で受刑者たちが演じる芝居を観る話があった。シューベルトだとかウェスト・サイド・ストーリーだとか、なんか俺にはよくわからないが教養ある演目だったらしい。この芝居プロジェクトの目的は、演劇を通じて暴力について考え、将来、暴力無しで問題解決できる人間になることだそう。受刑者を駄目人間扱いするのではなくて、なぜ人は暴力を犯すのかについて自分で考えさせようとしている。
一番大切なのは言語だ、と著者は書いている。といってもかれらが言葉を喋れないわけではない。日常言語はできても、社会問題を考え、広い視野で考察し、人に伝える言語を知らないのだ。だからこそこのプロジェクトでは、ギリシャ悲劇やシューベルトに学ぶことで、言語能力の向上を目指したのだろう、と。
俺が高校のとき、誰もやりたがらない弁論大会に生贄として参加させられたとき、同じようなテーマを喋った。たしかメインテーゼは「キレるガキには言葉が足らない」。うまく思いを口に出せないからキレるしかねーんだよ、あの連中は。みたいな感じ。賞はもらえなかった。
ドイツ語には「一度聞いたら耳から離れないメロディー」という意味の単語があるらしい。Ohrwurm。Ohrは耳、wurmはミミズという意味なので、日本語でこの単語はミミミミズとなるらしい。わろた。