これは俺がガキのころ考えて、以来ずっと抱えてる観念のようなもののハナシ。俺にとってはあたりまえのことなんでどっかに書いたりすることはなかったんだけど、知り合いに「漠然とした思考の文章化は思考力の訓練になる」と講釈を垂れてしまったんでちょいとひとつ書こうかと。





表題が表しているのは、なにかテクニカルなことを上達するにあたり、漠然と訓練しているだけではぶち当たってしまうひとつの段階のこと。とくに、慣れという受動的な形態ではなくて、みずから錯誤という能動的な訓練をしないと超えられない段階を意味してる。
将棋でただ王様めがけて突撃するだけの戦法ではいつかどうやったって勝てなくなるとか。ポケモンで好きなポケモン使ってるだけじゃ勝てねえとか。好きなもんばっか食ってたら病気になったからちょいと栄養を考えないといけないとか。マラソンで記録の伸び悩む奴がフォームを研究したら途端速くなったとかね。だからまあ「アタマ使わないとダメなステップ」とか「努力の必要なとき」とか、ていうか「メンドイこと」でもいいかもしれん。
最近「あ、壁きたわ」と感じたのはゲームやってるときで、てきとーに装備かっててきとーにダンジョン進めてたらなんか勝てない奴が出てきた。このときレベル上げしまくってゴリ押しするかちと属性とか考えて装備と戦術を替えるかなんだけど、この後者が壁。

この壁を能動的に超えることはかなりの経験値になると俺は思ってる。「やりたくないことはすんな。面倒なことはやっとけ。」という至言があるが、それはこのことを意味している。

以前書いたハナシだけど、その壁を超えるのが好きな奴、超えるのがうまい奴を努力の天才、生来その壁の超え方をしってる奴を天才をいえば収まりがいいと思う。




冒頭で書いた「文章化」もまたひとつの「面倒なこと」でありえるわけだけど、やはりこれも経験値になると思う。そういう意味で小学校の読書感想文なんてのは相当経験値が入ることだと思うんだが、重要性がわかってないのでたいていはテキトーにあしらって機会を逃してしまうのはもうしょうがないよな。俺だって文章書くのを楽しめるようになったのは高校以降だし。ただ俺の文章はギャグを織り交ぜまくって教師と「なんでまじめに書かないんだ」「だってつまんないじゃないスか」なる会話をしつづけてきたような文章なので経験値になってるかはしらん。
だけどぜんぜんアタマ使って文章書いてない奴よりはマシだと思うというか、そういう奴の喋りはマジで漠然としてて意味がわからん。なにを言うにも「よくわからないけど感覚的にそう思う」ってお前ナメてんのか。俺にとっちゃ論理と感情を分けて語るような連中は、自分が論理的に喋るのがニガテだからって「それもまたひとつの感情論という分野」とごまかしてるアホ。それは自分の発言の欠陥や不良を丸投げしてるのと同義。いや無論それは全然悪いことではなくて、ていうか連中にとっては俺が悪なんだろうし現にそう言われた回数を数えれば自分の指じゃ足りない。だが俺は絶対そいつらが悪だとは言わないしそれはひとつの矜持になりうると思ってる。自分は自分の世界の中心になるべきで、世界の中心じゃない。