雑誌やら、CDのライナーノートやら。これまで単行本にならなかった村上春樹の文章がセレクトされてまとめられた本だった。こういうのは読むのに時間がかかる。ひとつの話を読み終えるたびに、頭の中のオフ・オンを切り替えなくちゃならないから。だけれどまあ村上春樹の文章なので楽しめたぜ。心が整頓されました。気に入ったところをいくつか抜き出して感想とする。



村上春樹は文章のなかでたびたび、小説家の定義について語る。
  • 「小説家とは多くを観察し、わずかしか判断を下さないことを生業とする人間です」
  • 「最終的な判断を下すのは常に読者」
  • 「小説家がその権利を読者に委ねることなく、自分であれこれものごとの判断を下し始めると、小説はまずつまらなくなる」
  • 「良き物語を作るために小説家がなすべきことは、(中略)仮説をただ丹念に積み重ねていくことだ」
おお、なるほど! って感じだ。実際にかれの小説を読んだあとのふわふわ感はそこから来ているのかと納得した。同時に、どこかで村上春樹の文章を批判する意見を目にしたときのことを思い出した。そこにはこういうことが書かれていた。
  • 「うまいのは認めるけど、文学ってこういうものだろうか」
当時は何いってんのかよくわからなかったけど、その批評家が言いたかったのはこういうことじゃなかろうか? つまりさ、仮説だけを積み重ねた物語は、読者に想像の余地をものすごい残すから、深みがあるように感じられるんだよな。ただ書いてないだけなのに、読者は勝手に、そこになにかあるんじゃないかって思い込む。ただ答えを出すのをサボってるだけなのに、それを深みと誤認させて評価を上げるなんてのは、詐欺みたいなもんだってことなんじゃないかなかれが言いたかったのは。
その論理自体には誤りはないように思える。そしてその技術が読者を楽しませているというのは確かだ。で、その批評家が言いたいのは、それは果たして文学なのかってことだったな。その疑問、もう村上春樹の文章どうこうじゃなくて、その疑問を発した人の中の「文学」って言葉の定義の問題になっちゃってる。「村上春樹の文章って文学なんだろうか」じゃあなくて、「村上春樹の文章って僕の中の文学の定義に沿っているだろうか」になっちゃってる。だから俺が考える意味はゼロだろう。その人にしかわからない。

村上春樹が「ジャズってどういう音楽ですか?」と訊かれたときの答えが面白い。
  • 「そんなことは経験がすべてだよ。説明したってわかるものじゃない。何でもいいからジャズのCDを十枚くらいじっくりと聴いて、それからもう一回出直してきなさい」(中略)そう言えちゃうと楽なのだろうけれど(中略)話がデッドエンドになって、そこでぷつんと終わってしまうことになる。そしてそれは文筆家の仕事として、正しいあり方ではない。ジャズとはどういう音楽か? ビリー・ホリデイの話をしよう。
笑った。そしてこのあと、かれが国分寺でジャズバーを営んでいたころ、ビリー・ホリデイのレコードをかけてもらうのが好きだった物静かな黒人と、その連れの女性の魅力的なお話がはじまる。そして「こういうことがつまりジャズなんだよ」で締められる。まず、さんざん小説家は仮説を積み上げるだけの人間だと宣言しているにもかかわらず、小説家、文筆家という存在についてはかたくなな主義をもっている部分に笑う。格好いい。次に、ジャズバー時代の思い出話が普通にとても素敵で笑う。さっき仮説を積み上げたお話が深くていい話になる、みたいな話をしてたけれど、実体験であってもこんなに素敵に仕上がっちゃうのがすごいよ。

ところで、俺も普段からわりと文章を書いていることだし、文章を書くのは好きだ。これだけブログが続いてんだから、文章を書く体力もある。だけど俺がこれまで小説を書けたことは数回しかないんだよなー。具体的に言うと短いのがふたつと、100ページ級がひとつだけ。挑戦自体はしてるのだけど。でも村上春樹による小説家の素養をみると、うなずけちゃうところだ。
  • 「自分の考えていることを流暢に話せるような人は、わざわざ苦労して小説を書いたりしない」
だけど小説を書くのは楽しめるので、これからも挑戦してみるぜ。

スティーヴン・キングについて書かれた文章に、ホラー・ストーリーにおいていちばん大事な要素が書いてあった。その定義はとてもうなずけた。
  • 「uneasy(不安)でありながらuncomfortable(不快)ではないというのが良質の怪奇小説の条件である」
メチャうなずける。ふと思い浮かんだのだけど、先日プレイして感想を書いたフリーゲーム「END ROLL」があったけれど、その感想で俺は「矢継ぎ早に悪化していく夢世界に気持ちよく振り回された」と書いた。あの記事じゃなぜそれが「気持ちよい」のかの考察として、「状況変化がめまぐるしいから、素早く動くものには目を引かれてしまう理論で世界観に目を引かれちゃったんだろう」としている。悪化していく夢世界はuneasyではあるが、そのテンポのよさがuncomfortableを打ち消していた、よって気持ちよかった、と考えればすっきりするね。

スコット・フィッツジェラルドについて書かれた文章に、かれの生涯の波乱万丈さが書いてあった。フィッツジェラルドは輝かしい時代の寵児として文壇に上がるも、時代の変化で一気に落ちぶれてしまった。そして失意のうちに酒に溺れるようになった。
  • 「しかし作家フィッツジェラルドの素晴らしい点は、現実の人生にどれだけ過酷に打ちのめされても、文章に対する信頼感をほとんど失わなかったことにある。(中略)死の間際まで、しがみつくように小説を書き続けた。『この小説が完成すれば……(中略)すべては回復される』。」
フィッツジェラルドが落ちぶれるのと入れ替わるように文壇に上がったのがヘミングウェイらしい。ヘミングウェイはフィッツジェラルドと対照的に、文章による救済の可能性を信じられずに自害したそうだ。

うまく説明できないんだけど、以下の文章がすとんと俺の中に落ちた。
  • 「自己に対するパーソナルなコミットメントを、普遍のコミットメントへと敷衍していくこと、それこそが『告白』の純粋な意味」

また、小説についての文章。
  • 「音楽にせよ小説にせよ、いちばん基礎にあるものはリズムだ。自然で心地よい、そして確実なリズムがそこになければ、人は文章を読み進んではくれないだろう」
長距離ランナーのいうことは体幹がしっかりしているなあ。
  • 「もちろん現実の地球は球形だから、どこまでいっても『果て』はないわけですが、僕が考えているのはもっと神話的な世界のことです。(中略)そういう世界にはちゃんと『端っこ』があるわけです。そしてそこには『ここが世界の端っこです』と書かれた立て札が立っているかもしれない。あなたはそういう場所に行ってみたいと思いませんか? 僕は思います。だからこそ僕は『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』という小説を書いたわけです。つまりあなたが小説家であって、本当にどこかに行きたいと思えば、あなたは実際にそこに行くことができるわけです。
すごく夢の広がる文章だね。この文章自体にも、ひとつのリズムが通っているような気がする。



こういう本は読むのに時間がかかるし、感想も長くなる……。ひとつのテーマに絞って書くことができないから。けど楽しめたよ。しかし村上春樹の、文章や小説家に対するこだわりは尋常じゃねーな。上には挙げなかったけれど、メディアへの露出の多い文筆家を冷笑するようなことも各所で言っているし。「小説家というのは本来、あらゆる個人的行為や原則を、小説の中に詰め込んでいくべき」とか。