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これスゴかった。
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責任についての俺の考えを書く。責任の所在についての基本的な考え方は、「それをどうにかできるかどうか」である。逆にいえば、どうしようもないことに責任はないのである。イジメは傍観者にも責任があるというのはそういうこと。「だってお前、どうにかできただろ?」というわけ。あるいは、俺は子供のころ猫を殺したが、その責任も俺にある。俺にはどうにかできた(殺さないということができた)からである。俺のむかしの知り合いはこっそりとギャンブルに手を染めて破産したが、その責任は俺にあるかというとない。気づかなかったのでどうしようもないからである(先に言っておくと、あとでこの部分は覆す。ここでは基本的な考え方をわかりやすく書くために嘘をつく)。
とはいえここで、「もうちょっとがんばって気を遣っていれば気付けたんじゃないの?」とネチネチ言ってくるウザい奴もいる。非常にウザいが、俺が最後の例を覆す理屈もこれだ。「どうにかできるかどうか」を基準にするとあらゆるifを想定することになるため、実質世界中のあらゆることに責任が発生する。WW2の責任も俺に発生する。「もうちょっとがんばってタイムマシンとか開発すれば過去にいってがんばって風が吹いて桶屋が儲かりWW2防げたんじゃないの?」アホらしいけれどこれが論理である。そしてこの考え方はひとつのポジティブシンキングにも繋がる。
「どうしようもないことに責任はない」というくだりは、自分を責めがちの人間をわりかし安心させてくれる。が、一方、「すべてに責任がある」というのもまたちょっとアタマのズレた人間を救ってくれる。こんなのは当たり前のことで今更堂々と書くのも気恥ずかしくはあるが言うと、すべてに責任があるなんてのはぶっちゃけすべてに責任がないのに酷似しているためだ。すべてに責任があるのだから、俺がいまやっている仕事は俺に責任があるからでなく、俺がやりたいからやってんだ、という理屈になる。ちょっと詩的なことを書いてしまえば、すべてを受け入れることはすべてからの開放である。マジで詩的じゃねえか。これは恥ずかしい。
似たようなことは以前縛りプレイのハナシで書いた気がする。今みかえすとヒドイ出来だなあ。間違ってはいないが、見せ方に突っ込みどころがありすぎる。というか長ったらしい。以前書いた自分の文章を、しばらくのちにサマライズしなおすというのも思考整理になっていいかもしれないな。
ぶっちゃけこういうことを考えるのは勧められない。すべてに責任がないと考えているような奴危なくて一緒に遊べない。どっかのヒトがヴィトゲンシュタインの本の煽りとして「底知れぬ魅力と危険に満ちている」って書いてたけど、これってそういうことだと思う。考えることって付和雷同の対義語だし。だからこそヒトの意見を聞く余裕ってのが大事になってくる。ただヒトのハナシ聞く余裕があるっていうのは「ヒトはヒト、俺は俺」っていう考えが確立しちゃってるってことでもあるから、まあ、つまり、手遅れなんですねだからほどよくおバカに人生楽しもうずということで。