概要

芦沢央の小説は2年ぶりだね。

相変わらず、ルームメイトが貸してくれたんで、読んだ。サマリと感想を書く。

 

サマリ

  • 繭子さんが、産後鬱で、郁絵さんの赤子と自分の赤子のネームタグを入れ替えちゃう。
  • めちゃ罪悪感に苛まれるが4年間隠し通す。
  • まったく関係ない、相手方の浮気調査の DNA 検査で入れ替えが発覚する。
  • 入れ替わりは繭子さんのせいだとはバレてなくて、直井バースクリニックの原因不明のトラブルということで話は進む。
  • 繭子さんの頭のおかしい母親が裁判を起こそうとするが、それは事件の報道に繋がり、子供たちの招来に関わる行為だ。
  • 繭子さんはそれを止めるために、とうとう自白する。
  • 子供たちは郁絵さん夫妻がまとめて引き取ることになる。
  • 誰もが繭子さんを責める。が、あるとき郁絵さんはふと「あの人は、どうして子どものネームタグを外したりしたのだろう」と疑問に思う。それはこれまで一度も考えようとすらしないことだった。

 

感想

  • 「どうしてネームタグを外したりした」のかと言えば、出産の前後、繭子さんには精神的なプレッシャーが強くかかり、また同時に、精神的なケアが欠けていたからだ。周囲の人々の心無い言葉、配偶者の無関心。
  • そのことについて考える人物は、作中にはひとりも登場しない。
赤子を取り替えた = 母親失格、許せない奴
  • ……という等式で思考がストップしている状態だけが描かれている。そして一般的にはそれで良いんだよな。一般社会の中でお喋りするぶんには十分な倫理観だ。
  • ただ、最後に郁絵さんが、「どうして外したのだろう」と思うシーンが挟まれる。さらに、「自白しなければ永遠にバレなかったのに、どうして自白したのだろう」とも思う。その答えはわかりきっていて、繭子の母親のせいで事件が明るみに出れば、子供たちがつらい思いをするからだ。繭子さんは子供たちの人生のために、4年間隠し通してきた罪を自白した。繭子さんは、子供たちに対して冷徹な犯罪者では決してない。
  • この小説は、ありふれた倫理観でもって、人間たちがどれほど思考停止し、自分たちにとって理解しやすいようにレッテルを貼って物事を片付けるのか、ということを表現してるんじゃないかな?
  • そして、気を付けていたって、思い込みをまったくせずにいることは不可能だよね。本作の登場人物たちだって、決して短慮な連中だという描かれ方をしているわけじゃない。郁絵さんだって、繭子さんが虫嫌いだと思い込んだままだった。

やっぱり、繭ちゃんも本当は虫が苦手なんだ。 …(中略)… きっと、航太の前では一度も虫が苦手なそぶりさえ見せてこなかったのだろう。航大は虫が好きだから。

  • これはぼくにとって印象的な一節だった。人間の体温はミミズにとっては熱すぎるから、繭子さんはミミズに直接触れないようにしているのだ。だけど、それを見た郁絵さんは、ミミズが嫌いだから繭子さんは直接触れることを避けるのだと理解する。結果郁絵さんは “いいお母さん” と繭ちゃんに好印象を持つんだけど、決定的に間違っている。なんて、人は罪のない思考停止を簡単にするものなのか。
  • 繭子さんを見て、 “許せない” “自分は絶対にこんなことはしない” “何も同情できない” と疑いなく思う人間こそ危険だ。疑いなく思うってことは、思考停止ってことだ。自分にとってわかりやすい理解以外の考えを拒むってことだ。だって、繭子さんだってそう思っていた。

子どもを産む前、親が子を虐待したという事件をニュースで目にするたびに、砂粒を口に含んでしまったような不快感を覚えてきた。 …(中略)… だけど、わたしはあの母親たちとどこがどれだけ違うというのか。

  • こんなシーンまで用意されているのだから……作者が表現したいのはそういうことだろう……。今回の読書では、作品が表現しているメッセージをきっちり受け取れたような気がするぜ。……と、やっぱりある程度のところで思い込んじゃうものなんだけどな。

ほか、ちょろちょろした所感。

  • 良い人、嫌な人、良い面、嫌な面、たくさん描いていて、すごい。
  • 好きな一節。繭子さんが夫の旭さんを評する言葉。 “何て、この人は健全なんだろう。” いいねえ。何て健全なんだろう。ぼくは “ネアカ” っていう表現が結構好きなんだけれど (根が明るい)、 “何て、この人は健全なんだろう” っていう表現は、ぼくの中の “ネアカ” という言葉にイメージが近い。 “健全” だけじゃダメ。 “何てこの人は健全なんだろう” だ。