最近どっかで、「フラニーとズーイ」っていうフレーズを目にした気がするのだ。なんかの本だったと思うんだけど……多分村上春樹の本のどれかかな? そんなわけで今週はこれを読んだ。サマリと感想を書く。



グラス家7人兄弟姉妹の末っ子フラニーは結構いい大学に行ってるお嬢さんだ。彼女は最近周囲の連中にうんざりしている。なにせいい大学行ってる連中なんてもんはみんな自己愛に侵された意識高い系ばっかりだから。でも何よりフラニー自身が女優志望で「自己愛に侵された意識高い系」であることを自覚しているから、もうとにかくうんざりで家にこもっているのだ。
見かねた母親が、フラニーの兄であるズーイに妹を元気づけるよう頼む。ズーイとしてははっきりいってマジ面倒くさいのではぐらかすんだが、よりにもよって母親はろくでもない精神科医に電話をかけようとしていたり、つーかそもそもフラニーの悩みの原因とか全然わかっちゃいない。しかも去り際に「お前たちは小さいころはもっとお互い優しく親切で、それを見ているのは大きな喜びだったのよ…」とか吐き捨てていく始末。ああ~~もうわかったよこんちくしょうというわけでズーイは妹の元へ向かう。なにしろズーイはフラニーの気持ちがよくわかるから、フラニーを元気づけるのにうってつけだ。彼もフラニーと同じく、幼い頃から才児扱いでちやほやされ続け、どいつもこいつもレベルが低いと考えてるような奴だからである。
兄が妹へかけた言葉はこんな感じだった。すなわち、きみにとって周囲の連中がどんなにろくでなしだったからといって、それはきみの知ったことじゃないのだ。きみが女優として考えなければならないのは自分自身にとっての完璧さだけ。それを実現するには、神のために演技をすることである。ではその神はどこにいるのか? 神は太ったおばさんの中にいるのだ。きみは太ったおばさんのために演技をする。そして太ったおばさんではない人間なんてどこにもいないんだ。
フラニーはそのとき、世界にあるなけなしの、あるいは無数の智慧が残らず一挙に彼女のものになったかのような思いになり、救われたのだった。



「太ったおばさん」てのは、グラス兄妹の長兄が作り出した概念的人間だ。かれ曰く、人は、その太ったおばさんのために礼を尽くしキチンとしなければならない。「太ったおばさん」というイメージは兄妹にとって、よくわからん混沌としたイメージだ。けれど兄妹は彼女のために礼を尽くしキチンとすることができた。それはなぜかっていうと、それが神だからだ。清も濁もない、すべての根源が神なのだということをかれらは理解していた。そしてすべての根源に神がいるのだとすれば、そこから生まれたすべての存在の中に神がいるということになる。それが「太ったおばさん理論」だ。だから尊重しようぜ! ……というより、自然と尊重できるようになる、ということだ。たぶんな。

この「太ったおばさん理論」も言ってることは、「人は石である」と同じだろう。どれも本質的には同じってこと。「人は石」においてはすべてがただの石だから、何もかも本質的な価値はないって流れになるんだけど、グラス兄妹にとってはすべてが神だから、「人はみな石である」が「人はみな神である」に替わり、すべてが尊重すべき対象になるってことだね。でもようするに全部おんなじってことだから、俺もまるで異議はないな。全部ゼロと全部イチってある意味で同じなんだって。
「全部ゼロってことはすべてを下に見るってことじゃないの?」って意見がごくまれにあるが、それはあんまり妥当じゃない。自分を含めすべてが同価値って視点は、「自然」というものをいたく意識する視点でもある。「自然」てのは、意識したら圧を感じるものだ。つーかそうして生まれたのが自然崇拝だろう。時代の流れに従い人間が自然をある程度制御できるようになり、我々にとって自然の価値が相対的に下がったことで自然崇拝は失われてったんだ。そういう目でみたらさ、「相対的に下のものがいる」ってより「全部ゼロ」のほうが余程健全だと思うね。

それはともかく、ズーイくんマッジ話なげえ。ってとこだけどこれは割と仕方ないことだ。というのもさ、ズーイがフラニーに授けたのは、世界の見方を一新する提案だ。世界の見方を一新することは普通、体験を通してしか実現できない。だから一部の思想家は自分の思想を伝えるとき、その思想を直接ずらずら並べるんじゃなく、物語を書き、読者に自身の経験を仮想的に追わせるのだ。だからズーイくんは、あの長広舌無しに、最後の部分だけ語るわけにはいかなかったんだ。ズーイくんは中盤で、フラニーの行いや未熟な思想をこてんぱんにのめす。フラニー大泣き。だけど多分、それってズーイくんも経験したことなんだよ。ずたぼろになったことがあったんだよ。それを通過させず、おいしいところだけもっていかせるようなことはできないのだ。いやできないというか、ずたぼろ経験なしに最後の部分だけ見ても心が理解できないのだ。それがズーイくんの長広舌の意味だ。ズーイくんにそのつもりがあったかどうかはわからない。が、ともかく、そうでなければならなかったのだ。

俺にもいちおう心の弟子みたいな奴がいるが、そいつに説法をするとき苦心するのがそこだ。そいつは苦しんでいる。俺はそれを乗り越えたし、乗り越える手法も自分の中でシステム化したから、伝えることはできる。だが果たして、そこだけ教えて、意味はあるのか? そういう思いがいつもよぎる。厳密にはそいつの問題と俺の抱えた問題は違っているはずだし、本当に必要なのって今を乗り越えることより、将来の類似例に対応できることじゃないのか? チャンスってなかなかめぐってこないものだが、「問題」だってある意味ではチャンスのひとつなのだ。いまそいつが抱えてる問題って割と貴重なもので、俺が横からちょっかいだして台無しにしちゃダメなんじゃないか? 俺はただ、そいつがこてんぱんにのされたとき寄る辺となるセーフティネットであるべきなんじゃないか? つーかこの気持ちって親のそれじゃないか? 俺はお前のパパやないねんで!

あと、ズーイくんたちのママ、マッジ風呂場から出ていかねえ。めちゃ笑った。ママもママで、子供の扱いについては策士よな。