2月に読んだボリス・ヴィアン『日々の泡』に、ジャン=ソオル・パルトル『吐瀉物』というジャン=ポオル・サルトル『嘔吐』のパロディアイテムが登場する。それで興味を惹かれて、本書を手に取ったってわけ。ちとむつかしかったけども、物語のサマリと感想を書く。



これは30歳独身、アントワーヌ・ロカンタンさんの日記だ。ロカンタンさんは世界中を旅しており見識が広く、学識も豊かで、働く必要のない金利生活者というパーフェクト野郎である。そんなロカンタンさんはそのとき、ブーヴィルという町の安宿に居を定め、ロルボン侯爵なる歴史上の人物にかんする伝記的論文の完成に精を出していた。
あるときロカンタンさんは身の回りの「物」に吐き気を感じるようになった。彼はカフェ・マブリ、図書館に通い、ささやかな人付き合いをしつつ、町の人々に言及しながら出来事に一喜一憂する生活をしているが、そのところどころで「物」に吐き気を感じてしまう。この吐き気の正体は何なのか? ある日ロカンタンさんは押しつけがましいヒューマニストから人間愛の話を延々と聞かされマジでうんざりし、強烈な吐き気の発作に揺さぶられたのをきっかけに、吐き気の正体を理解した。それは「存在」に対する吐き気だったのだ。物の多様性、物の個別性は存在の表面を覆うニスにすぎず、それを剥がしてしまうと、あとには怪物じみた、ぶよぶよした、混乱した塊が残る。ロカンタンさんはそれを見出し、すべての「存在」は「余計」だと結論づける。それぞれの「存在」の本質に個別性がないとすれば、それらはすべて偶然にそこにあるものであり、存在は必然ではないので、すべては「余計なもの」だという筋である。そしてそれは自分自身の存在も例外ではないのだ。
その後ロカンタンさんは昔の恋人アニーと再会する。彼女はロカンタンさんの発見した存在に関する理論に対し、すべての状況には必然があり、「完璧な瞬間」というものが必ず存在するという思想のもと生きる女性だった。しかしいまでは「完璧な瞬間」はありえないことを悟り、「物を見ていると気持ちが悪くなる」と語る。なんとなく自分の状況と似ているような気がしたロカンタンさんだが、アニーは、「あなたはまわりの物が花束みたいに配置されていないからって愚痴をこぼしているだけ。自分では何一つやろうとしない。あなたは冒険が起こる人で、あたしは冒険を起こす人だ」と断言する。
ロカンタンさんは自分が何をすればいいのか煩悶する。というより何もしたくない。何かをするというのは、存在を作り出すことだからだ。だからあれだけ精を出していた論文の制作もやめてしまう。懊悩する彼だったが、音楽を聴いているときだけは吐き気が和らぐことを再発見する。なぜかといえば、音楽の作り出している世界は、始まりも終わりもない現実の存在の世界とはかけ離れた「冒険」の世界だからである。自分は文章を書くことしかできないから、ロカンタンさんは音楽と同じことを小説を書くことで実現しようと考える。最初は退屈で疲れる仕事でしかないだろうけれど、いつの日か嫌悪感なしに自分の生涯を思い出すことができるだろう、と思うのであった。



俺は文学というものを「読み手に書き手の経験を追経験させる装置」(文学はメタファーである2より)だと思ってるんだけど、そのものまさにそういうタイプの本だったな。日記の体裁をとっているせいで話がぴょんぴょん飛びまくり、最初は非常に読みづらく意味不明だったのだけど、作者の意図が分かってからはラクだった。つまり、「文学はメタファーである2」に書いた通り、実体験なしには理解されないような哲学や思想を、それらをメタフォライズしている物語を通して表現するのが目的だってことだ。

ちなみに『嘔吐』の主要な思想は、存在は存在でしかなくそこに意味などない、ってものだと思うんだけど、それはこないだ書いた「人は石である」で言ってるのと同じことだろうたぶん。思想がわかりやすく理解されるために、小説を使うかわりに、「この思想はこういうとき実際に役立つよ」という実用法を合わせて書いたのがあの記事だ。

読んだあとにサルトルについてちょっと調べてみたら、カミュ=サルトル論争というものを見つけた。これはまあつまりカミュとサルトルが思想や主張をぶつけあってバトった論争のことらしく、これを境にふたりは絶交したそうだ。これは偶然なんだけど、たまたま先日カミュ『異邦人』を読んだ。感想文に書いた通り俺はその本にもわりと共感を覚えたんだけど、自分が共感を覚えた本の作者同士が思想をぶつけ合って絶交したっていうのはなんだか不思議な感じがするよなあ。いや、似た者同士のほうが喧嘩するっていうけどさ。

以下、こまごまとした感想など。
  • この本はこないだ読んで感想文も書いたナボコフ『ロリータ』などと同様に作中作みたいな体裁をとってるんだけど、それは18世紀以降しばしば用いられてきた手法だそうだ。でもあまりに多くの作家がこれを利用するようになったため、18、19世紀の小説につきものの陳腐な枠組みと化したらしい。へー。
  • 『ロリータ』に負けず劣らず訳注の多い、衒学的な文章だった。読みづらいことこの上なかったけれども、逆に「どうせじっくり読んでもわからんしすらすら読み飛ばしちまおう」という方針を早くに固められたのはまあよかったかな。
  • こういう日記形式、あるいは一人称小説は「内的独白」だととらえればいくぶん読むのが簡単になるんじゃないかね。ほとんど文章になってないような部分などは、「ああコイツ混乱してんなあ」とか苦笑しながら読めばいい。
  • 歴史研究に関する以下の文章が気に入った。「ロルボン氏は私の協力者だった。彼は在るために私を必要としたし、私は自分が在ることを感じないために彼を必要としていた。(中略)彼の役割は演じることだった。(中略)私はもはや自分のなかでは存在せず、彼のなかで存在していた。」
  • 読みながらふと思いついたことだけど、「読解力」という言葉は、「隠喩を理解し解き明かす能力のこと」と定義するとしっくりくるんじゃないかな。

重厚な本だった。「意味わからん。要点だけ書けや」などとこぼしながら読んでる俺に、親愛なるルームメイトが「とはいいつついちおう最後まで読めるのってすごいと思うよ」と言ってくれた。「最後まで読まないと感想文でこきおろすこともできん」というなんともな理由でとりあえず最後まで読むようにしてるんだけど、おかげで読書の体力はちょっとずつついてるような気がするね。