なんか目に留まったんで読んだ。すげー面白かった。バスの中でしばしば吹き出しちまったよ勘弁してくれ。サマリと感想を書く。訳は村上春樹。



臆病で勉強も運動も人付き合いも微妙で、ただ人や物事をこきおろす語彙だけがめちゃめちゃ豊富な少年、ホールデン・コールフィールドが退学になった学校の寮を出て、家に帰るまでの物語だ。
インチキくさい学校とくだらないルームメイト、とんちき寮生たちにうんざりして予定より早めに寮を出たホールデンは、カスな同級生の素敵な母親に出くわしたり、ハリボテバンドが演奏するしけたナイトクラブでうすのろ女たちとダンスして気が滅入ったり、いつもかりかりしているタクシー運転手に面食らったり、旧知の女性と喋って退屈死しそうになったり、ポン引きとひと悶着起こして大泣きしたり、感じのいい尼さんたちとお喋りするものの些細な自分の粗相に落ち込んだり、嘘くさい女友達とデートしてる最中に相手をスカスカ女呼ばわりしてキレさせたりする。つまりホールデンはろくでもない落ちこぼれで、それを自分でも自覚しているのだけど、彼にとっても世界のすべてはインチキくさくて、嘘くさくて、ろくでもないものに見えている。けれどだからといって自暴自棄になったり、何かを変えてやろうなどとは露程も思っていない。ただインチキくさくて嘘くさくてろくでもないなあと思っているだけだ。
そんなホールデンには愛する妹がいて、ホールデンが「ヒッチハイクして西部へ向かう」などと妄言をのたまったときに泣きながら自分もついていくと言ってくれるようなよい子だ。ホールデンとしてはもう色々なものにうんざりして旅立つつもりだったのだが、この妹に泣かれては仕方ないと家に帰ることになる。



ホールデンくんの言葉遣いや行動がほんとに俺を笑かしてくれて、マジに楽しめた。語彙力と思考経路が豊富すぎるぞ、ホールデン。学校の成績はクソ悪いのだろうけれど、それは学校の評点制度が彼の感性と合っていないだけだ。彼がスピーチのクラスに対する不満を語るシーンでそれが発露している(そこでもクラスの先生のことを「知的ではあるんだけど、どう考えても脳味噌ってものが不足しているんだな」ときっちりこきおろしをやっていてもう拍手喝采するしかないだろ)。まあ小説の語り手がバカ設定と反して語彙力豊富っぽく見えちゃうのって仕方ないことだとは思うけれど、世の中に不満があり、かつ孤独な奴って、その不満を認識するために語彙力が豊富になるものだから、ホールデンが語彙力豊富なのは妥当なことだと俺は思う。
「つまり僕は思うんだけど、少なくとも誰かが何か面白そうなことをやっていて、それに夢中になりかけてるみたいだったら、しばらくそいつの好きにさせておいてやるのがいちばんじゃないのかな。そういう具合に夢中になりかけてるやつを見てるのって、なかなかいいものなんです。」こいつのどこが落ちこぼれなんだってくらい健全な哲学をもっているよなーホールデンは。

というわけで大笑いしながら読んだ一冊だったんだけど、一冊の本という単位で何を言いたい物語なのかはよくわからなかった。思春期の世の中の見方をメタフォライズするのが目的なのかな? 同じく村上春樹訳を読んだことがあり、気に入っていると言っていたルームメイトに「どこが気に入ったの?」と感想を訊いてみたんだけど、「さあ? 読んだとき何か気分がよかった」とだけ言っていた。そんくらいの感想でいいのかもしんないね。

「村上春樹訳」について。俺は村上春樹の文章がとても好きなので、この訳書の文章もとても気に入った。ただ今回この人、訳注で自分を主張しすぎだ。「これは~という意味で、ホールデンは~ということが言いたいわけだ。」みたいな訳注が多いが、「いや、お前が喋りかけてくんなよ」と思っちまう。訳注は「これは~という意味だ。」だけでいいのだ。さらに巻末、「本書には訳者の解説が加えられる予定だったが原著者の要請により不可能になりました残念です」みたいなことを書いていやがる。別に書かなくていいだろそれは。まるで原著者が狭量でケチくさいかのような印象を与えてしまうだろうが。蛇足だ。そこらへんが「残念」だったよ。



俺が本書を読んだあと、上述のルームメイトと「ホールデン症候群」が流行った。ホールデンくんは地の文でやたら数字を大げさに描写することがある。ことがある、というかめちゃめちゃある。「アックリーはそのろくでもない写真を、少なくとも五千回くらいは手に取っているはずだ」「その子はジーンズの上に二十着くらいのセーターを重ね着している」「彼女は机のところに行って百万個くらいの引き出しを開けて中をごそごそと探る音が聞こえた」、こういうやつだ。それで俺たちは「もう二十時間くらい自転車こいでるよな」「おなかペコペコで牛丼30人前は食べれる」とかいって遊ぶわけで、「ホールデン症候群」とはそれを指す。