床屋のおねーさんに薦められたので読んだ。サマリと感想を書く。



不景気で、他国にも毅然たる態度をとれずヘイコラしてばかりの日本。海外と政治家への反感はつのる一方だったが、期待の新星犬養さんが現れる。39歳という若さで、自信に溢れ、明確なスピーチをする、そして鋭い視線。彼のカリスマにやられちまった人々は熱狂し、それは大きなうねりとなっていた。
そんな流れに懸念を抱くサラリーマンの安藤くんがいた。彼はそういう、自分の頭で考えることなしに雰囲気にあてられ流行に飲み込まれる人々の姿とファシズムを重ねあわせ不安を抱く。現に犬養の発言が生み出した反アメリカ感情でマックが燃やされケンタッキーが焼かれ、安藤くんの友達のアメリカ人も家を焼かれてしまった。安藤くんの友達は、考え過ぎだよ世の中のみんなが引きずられるわけないじゃんというが、気付けばそいつ自身が犬養のファンになっていた。そんななか、安藤くんは流されることなく「でたらめでもいいから自分の考えを信じて対決していけば世界が変わる」と考えひとりで犬養に対決していく。具体的には、安藤くんはなんか、自分が念じた言葉を人に言わせることができる超能力をもっているので、それを利用して犬養の失脚を目指す。ただし安藤くんはその最中、超能力の副作用なのか、他の超能力者の攻撃なのか、脳溢血で死んでしまう。
兄の死の直後、安藤くんの弟潤也くんもまた超能力に目覚める。1/10までのくじならアタリを引けるという能力だ。彼はお兄ちゃんほど政治問題へ熱心なわけではないが、彼もまた、流されることなく自分の信じるものを信じ続けることのできる人間だった。「洪水が起きたとき水に流されないで立ち尽くす一本の木になりたい」人間だった。自分ひとりでも世界を変える、と彼は超能力でお金を貯めまくることにする。



孤高な人間の話だった。安藤くんみたいな人って孤高に見えるけど、別に「孤高になりたい」って思ってるわけじゃないんだよね。孤高っていうのは結果であって、結果は行動のあとにあるもんだ。別に「孤高でありたいなんて言ってる人は孤高になれませんよープププ」って言いたいわけじゃなくて、孤高になるなら「孤高」を目指すんじゃなくて「孤高であるための行動」を目指したほうが近道だと思うよってこと。それでその行動を示してくれたのが安藤くん兄弟だった。まあでも兄弟だけが犬養さんの大きな流れの中で立ち尽くす一本の木であったわけでもないよな、この小説では。犬養さんは何度か襲われてるし、実際安藤の兄ちゃんがやろうとしてたのもそれと同じだし。ふつーに拳銃とかで襲った人も実は安藤くんレベルに考察したうえでの行動だったかもしれないし、安藤兄ちゃんだって超能力がなければナイフを使ったかもしれないし。

しかし犬養さんがいかすよなあ。煽るだけの煽動者では全然ない。もちろん最初はファンを増やすために煽動者チックなことをするんだけど、一定の地盤を確保したあとはきちんと、「私を信じるな。私はこの道を信じるし歩むが、きみらは自分の頭で考え、その結果信じられないと思えば別の道をゆけばよい」みたいなこと言うし。それって俺が思うに教育の場でも完璧なやりかたで、最初はちょっと内容が間違っていようとわかり易さを優先すべきなんだよ。そしてそのあとで、ずれてる部分を是正していけばいい。安藤くんは一番最初の煽動者チックな部分をみて「これはやばいぞ」と思ったわけだよな。

もちろん「犬養さんは間違ってなかった。安藤くんざまあ」っていうんじゃなくて、そのときどきで、自分の考えに従って動くということ自体がこの話の核なんだと思う。ていうか犬養さんも安藤くんみたいなタイプが一番好きだと思う。



ところでこの小説に限らずいろんな場面で「自分の頭で考えて行動する」ってのは出てくるけどさ。自分の頭で考えてない奴なんていないと思うよ俺は。流行に乗る人も、「みんながやってることに乗ったほうが私がキモチイイ」って思って乗ってるわけだろ? あるいは「仲間はずれにされるのは得策ではない」とか思ってるわけだろ。その流行に乗ることで何が起こるのか、その流行がどう起こされたものなのか、みたいなところまで述べられないと自分の頭で考えたことにならないってのはちょっと厳しすぎると思うね。彼らは自分の頭で考えてないんじゃなくて、そこまでは考えないだけだ。だからといって考えてる奴より考えてない奴のほうが頭が悪いってことにもならない。人はそれぞれ、目指すところが違うんだ。「考えることが必要なもの」を目指してる奴は考えるし、「考えることが必要ではないもの」を目指してる奴は考えない。それだけのことだと思う。