つかってる言語が違ったら、世界の見方も違うんじゃねえの? という感覚を俺はずっと持っている。この感覚の根底には、「思考は言語によって行われる」という思想がある。
だから、外国語を学ぶことは世界の見方の種類を増やす(=視野を広げる)手っ取り早い方法のひとつだと思っている。他にはたとえば、知らない場所に行く、知らないものを見る、などがある。

この本はその感覚、思考と言語の関係についてのデータを提示し、言語は世界の切り分け方を規定するものだという結論を出している。俺もこの結論に異論はない。普段俺らは日本語流に切り分けられた世界をみているが、外国語を学ぶことで「あ、こういう切り分け方もあるんだ」となって視野が広がる。というのが上で言ったことだ。むろんこの切り分け方の違いは言語を隔てていなくとも、すぐそばにいる人との間でも存在する。それを理解しろ、手前の当たり前が誰にとっても当たり前だと思うのを今スグやめろ、というのが俺の昔からのテーマなのだが……閑話休題。今回はこの本のなかで面白かった部分を書く。どれも言語が思考に影響を与えていると分かる内容だ。あと「へー」ってなる。


1. 言語間における基礎語の差異
「入れる」は"put in"だが、"put in"は「嵌める」も表す。しかし「入れる」は「嵌める」ではない。あるいは、中国語では「手を上にして掌を支えにして何かを持つ」「片手を下にしてモノをぶら下げて持つ」「片手を上にして指で持つ」これらすべてに専用の動詞があるが、英語ではただ"have"だ。一方で英語では「持つ」「運ぶ」では違う動詞だけれど、中国語ではその区別がない。それゆえか、「片手を上にして指で持ちながらモノを運んでいる」ムービーと「片手を下にしてモノをぶら下げて持ちながらモノを運んでいる」ムービーを見せると、中国人は「違う」といいアメリカ人は「同じ」と答えやすいそうである。

2. 色
色をグラデーションで並べ、

~~~青~~~B~A~C~~~緑~~~

の部分を抜き出してみる。
そして二種類の人たちを呼ぶ。片方は母語に青と緑の単語をもつ人(アメリカ人)、もう片方は(俺らにとっての)青と緑を同じ単語で呼ぶ人(メキシコの先住民)である。図のAは、青と緑の中間ではあるもののアメリカ人がふつう緑と呼ぶ部分だ。そのAを見せながら、BとC部分の色を見せて、「どちらがAに近いか?」と訊くわけである。アメリカ人は「C」、メキシコの人は「同じじゃね?」と言うらしい。「Aは緑だから、より緑っぽい方が近いだろう」、アメリカ人はそう考えてしまうのだ。こういうのをカテゴリー知覚といって、言葉が俺らの認識を歪ませる現象だという。

3. 冠詞が記憶を歪ませる
英語話者に、クルマが事故にあうムービーを見せる。「ムービーの内容を覚えておいてね?」と言って、である。見せたあとに二通りの質問をする。"Did you see the broken headlight?"そして"Did you see a broken head light?"前者の質問をされた人の方が、"Yes."の割合が高かったそうである。"the"は特定の対象があることを含意した冠詞である。よって"the"付きの質問を聞いた人は、しらず壊れたヘッドライトがあることに同意させられてしまっているのだ。もちろん日本語には冠詞がないのでこんなことは起こらない。


さて気になるのが、「で、これ何の役に立つの?」である。緑さんは実用主義なので特にそこが気になる。まずもって、人はみんなそれぞれ考え方や世界の見方が違うんだからソコ理解しろや、という教説が強化される。それと、外国語の勉強をするときの役に立つんじゃなかろうか。
というのも、上で中国語にはモノの持ち方によって単語がいろいろあることを述べたと思うが、中国語を勉強している日本人は「抱える」「背負う」「担ぐ」はちゃんと覚えるのに、「掌で…」「ぶらさげて…」というような中国語の単語は覚えず、比較的意味の広い「持つ」という一単語だけですべて代用しがちだそうだ。これが外国語学習が難しいことのひとつの要因だろう。つまり、母語の情報処理システムが、母語にとってはあまり重要ではない情報を排除してしまうのだ。
俺もルーマニア人に日本語を教えているときよく感じたことである。かれらの作文を見て、「え、なんでここでこの単語を入れる?」と思うことがある。そこで、その部分を英語に直してみると何と意味が通じちゃったりするのだ。何が起こっているかといえば、1. で述べた"put in"現象が起こっているのである。
何で間違うのか、その理屈がわかっていれば間違うことも減るだろう。そういう風にこの理論は使える。

ちなみにバイリンガルはどちらの言語にももう片方の言語の影響が出てしまうようだ。