この本は村上春樹『海辺のカフカ』に対する分析書だ。『海辺のカフカ』は9.11事件の一年後に出版され、世界中で売れに売れ、読者の多数は「癒やしと救い」を感じたという。その「癒やしと救い」の正体は何なのか、そしてそれはイイコトなのか? というのがこの本のメインテーゼだ。
何を隠そう俺も村上春樹好きで、『海辺のカフカ』は数回読んだことがある。そんなわけで『カフカ』を精読していくこの本は楽しめたぜ。いつもどおりサマリと感想を書く。



「癒やしと救い」の正体は、9.11以降人々の心を覆っていた罪障感の解消である
  • 『カフカ』主人公のカフカくんは、「いつか父を殺し母と姉を犯す」という呪いを受けている。親殺しと近親相姦は人類のタブーだ。カフカくんはそんなタブーを、最終的には、擬似的にだが犯してしまう。だがその罪は「いたしかたない」とされる。
  • なぜかといえば、カフカくんは幼いころ母に捨てられた辛い過去をもつ少年だからだ。そのせいでカフカくんはずっと、「自分には母に愛される資格がなかったんじゃないか」「自分は生まれつき汚れをもつ人間なんじゃないか」という問題を反芻し続けることになっている。これだけ深いトラウマを負えば、タブーを犯してしまっても「いたしかたない」という論理である。
  • しかしその許容は間違いだ。カフカくんの人生の問題となっている上記の問いは、実は人間なら全員が経験していることなのである。それは幼少の頃の肛門期と呼ばれる期間のことだ。小さい頃はみんな、排泄物を垂れ流しにしても周囲の大人たちが甲斐甲斐しく面倒を見てくれるものだが、あるときを境にそれは許されなくなる。便意を感じたらそれを言うよう強制され、垂れ流すと叱られる。これは子供にしてみれば相当に理不尽で恐るべき体験である。そのとき子供は母に愛されていないのではないか、という疑問を抱くようになる。まさにカフカくんが抱いている問題だ。彼は幼いころ母を失っているため、その体験が遅れ、あるいは長引いてしまっているだけなのである。
  • つまり『カフカ』という小説は、表面上には「特別な問題を抱えた人間はタブーを犯しても『いたしかたない』」と言いつつ、内実「みんなタブーを犯しても『いたしかたない』」と読者に伝達しているのである。出版当時、人類は9.11によって、人間社会全体として大きなタブーを犯したという罪障感をもっていた。それを「いたしかたない」とされることで、人々は「癒やしと救い」を感じたのである。

「癒やしと救い」のもうひとつの正体はこの小説が、歴史認識が空虚であっても構わないという許しを与えるからである
  • 『カフカ』の中では、擬似的に処刑されるふたりの女性がいる。ナカタさんの昔の先生である岡持先生と、カフカくんが図書館で出会った佐伯さんだ。この二名は著者いわく、ミソジニーを下敷きにしたまったく不当な罪で処刑されている。
  • 『カフカ』では、ナカタさんとカフカくんがそれぞれ損なわれた要因が、女性が女性として、自らの性的欲望の主体となったというところに帰着させられている。岡持先生は夫との激しい性交の夢をみたことが遠因となりナカタさんを損ない、佐伯さんが「いろんなものをあるべきかたちからずらしてしまった」こととカフカ少年と交わったことが、作中に登場する邪悪なものをもたらしたとされているのだ。だがそれらはまったく不当なことで、性欲を抱く女性に対するミソジニーがこの小説に強く宿っていることがわかる。
  • 岡持先生の「罪」にまつわることはほとんど戦時中であることからきた不幸で、もとをたどっていけば昭和天皇ヒロヒトに責任が帰着するはずだ。佐伯さんがいろんなものをずらしてしまったとしても、彼女は戦後の学生運動中の内ゲバで恋人を亡くした過去があり、むしろ被害者にも相当する。しかし『カフカ』では、岡持先生の生きた戦中と、佐伯さんの生きた戦後の日本社会の歴史性は、彼女たちが自ら「罪状認知」して責任の所在を隠すことで否認されて消去されているのである。
  • こうした構成で、すべての責任を女たちになすりつけ、歴史認識を空虚にするのが『カフカ』という小説。
  • 『カフカ』出版当時20代だった読者は、中高で従軍慰安婦問題を知った世代である。その事実を知ったときのトラウマと向かい合わなくてもいい、とすることが「癒やしと救い」のもうひとつの要因である。

著者の意見
  • タブーを犯すことをいたしかたないこととして容認したり、内省行動を捨てることは、言葉を操る生き物としての人間の、最も要にある能力を冒涜する行為である。
  • 逆に、言葉を操る生き物として他者への共感を創りだしていきたいと思うのなら、トラウマと繰り返し向かい合いながら対話を続けていくべきである。



『カフカ』に登場する書物は、『カフカ』の物語と対応している
  • 『バートン版千夜一夜物語』。これは「女性の性的放縦は罪だ」というミソジニー的イメージを形成している。とくにバートン版が選ばれていることが重要で、バートン版はヨーロッパ列強によるアラブ・イスラム地域に対する植民地支配のためのツールであった。明らかな特徴として、エロチックな箇所を誇大に表現し、原作にはない文章まで加筆しており、アラブ・イスラム地域の人々をことに「性的放縦」に描いているという点がある。これはヨーロッパ人が、キリスト教徒の自分たちは彼らと対比して禁欲的であるという自己像を形成することにつながる。「性的放縦」の強調により、『千夜一夜物語』の枠物語であるシェヘラザードの物語がバートン版ではクローズアップされている。シェヘラザードの物語とは、妻の性的放縦によって裏切られた男たちの物語であり、つまりミソジニーだ。なお『千夜一夜物語』には、ミソジニーに取り憑かれた男を女が言葉の力によって改心させるという要素もあるのだが、それは『カフカ』がこれをモチーフ化する際には無視されている。
  • 『流刑地にて』。処刑機械が罪人の体に罪状を彫り込み、最後には処刑する話。これは「暴力ではなく言葉が人を処刑する」というイメージを形成している。『カフカ』においては、佐伯さんが自らの過去をしたためた文章がそのまま罪状となり、擬似的に処刑される部分にそれが現れている。
  • 『坑夫』。「目の前に出てくるものをただだらだら眺め、そのまま受け入れてるだけ」な主人公の話。主人公の立場は無性格論だと言われる。無性格論とは、人間の性格や人格は一瞬一瞬で変わり、それどころか矛盾することもあるという理論だ。しかしその一方でこの主人公は、自分の性格や人格への分析を一貫して行っており、逆にきわめて確固とした内省的自我の存在を読者に印象づけてくる。これは「表面的には受け身だがその実めちゃめちゃ内省的」「記憶の連続性」というイメージを形成している。このイメージは対称的なかたちで『カフカ』に現れる。『カフカ』の主人公たち、ナカタさんとカフカくんは、「表面的には積極的だが実際はめちゃ受け身で内省ができない」「記憶が途切れる」という人たちである。
  • 『虞美人草』。決められた相手以外と結ばれようとした女性が処刑される話。ミソジニーのイメージ。
  • 以上の書物は『カフカ』の各所にモチーフを送り込んでいるだけでなく、物語の流れにも呼応している。
    • カフカくんと大島さんが『千夜一夜物語』(ミソジニー)の話をしてると『流刑地にて』(処刑)に話が移る
    • 『坑夫』(記憶の連続性)を読み終わったところでカフカくんの記憶は途切れる
    • 擬似的父殺しが終わったとき『虞美人草』(処刑)を読んでいる
  • 『カフカ』の大筋をつくる「いつか父を殺し母と姉を犯す」という呪いもオイディプス王の物語を下敷きにしている。「お前は息子の手で殺される」という呪いを受けたライオス王はそれを恐れ、生まれた息子を山に捨てるが、拾われて隣国のポリュポス王の子となってオイディプスという名をもらい、風が吹いて桶屋が儲かり、オイディプスはライオスを、実の父親だと知らないまま殺してしまうという物語だ。



構成が深いなー!! 村上春樹の本ってのは Easy to read, hard to understand の典型だ。俺は村上春樹の文章がとっても清潔で好きなだけなので、 Easy to read の部分だけで満足してたんだが、きっちり紐解いて understand しようとするとこういうことになるのか! ほんとうに楽しく読めた一冊だった。なるほどねえ、村上春樹の小説ってのはこんなふうに読み解けばいいのか、ってのがすこし分かったよ。つまり、作中の意味不明な出来事はいつも何かをメタフォライズしており、その手がかりとして作中に登場する実在の事件、人物が用意されてるって感じだろうか。『カフカ』でいうならば、女性たちの意味不明な死はミソジニーを下敷きとした歴史認識の棄却をメタフォライズしており、その手がかりとして戦争に関する話題や書物についての会話が用意されているってところだ。