妥当っていうのは論理哲学についてもっとも大切な概念だ。手前の記事を引用すると、哲学はこいねがうものをあきらかにする思考(1より)であり、論理は妥当性の発見(2より)である。ただ、明らかにするといっても我々に明らかにできることなんてひとつもない。これはつまり、いわゆる「そこに机があるように見えるが、ほんとうにあるのか?」ってやつだ。あるいは、寝ぼけてピントの合っていない目で一本の鉛筆をみると二本に見えるけど、ひょっとしてそっちのほうが本当の世界なんじゃないの? みたいな。これの是非を明らかにする方法はない。

もちろん前提(12より)があれば別だ。「触れるものだけを、ほんとうにあるとする」という前提をおくなら、机はあるし鉛筆は一本だ。もちろん。

ただ、机がそこにあるかどうか、鉛筆が何本か、我々はきちんと決めて生活している。それを決める指標は正しさではない。それは妥当性である。妥当は正しさとは関係ない。「現実に生活する上でそっちのほうが都合がいいから」というのが妥当性だ。机がほんとうにあるかどうかは分からないけど、おろした鞄はその上に置けるし、そこでゴハンも食べられる。ならそういうことにしておいた方が妥当だ。

引用記事の13には真理について書いた。真理は前提を必要としない理論だ。つまり机はほんとうにあるのかどうか、ということ。これは我々には分からない。我々は五感という前提の上でしかものを見られないからだ。

たぶんどこかの宗教では、五感を捨て去り無に達することを目的とした瞑想だか何かを推奨していると思うが、それはこれが原因だ。真理に到達し悟りをひらくには前提を捨てればいい。理にかなっている。妥当だと思う。可能かどうかはしらない。