正味な話、期待はずれだった。というのも最近文学作品といえば件の『デミアン』しか読んでいなくて、それが物凄い共感できる作品だったから、文学に対する期待が大きすぎたんだと思う。まあ『デミアン』に出会うまでも幾多の「うわーつまんねー話…」を経験してきたわけだし仕方ない。
しかし『デミアン』以前と違うのは、どんな作品であれどんなストーリーであれ物語には作者の哲学と思想が込められているはずだと分かっているところだ。だから今回もそれを読み取ろうと頑張ってみた。…が、まあ、こういうのは頑張ってどうにかなるもんじゃないですね。
とりあえず話のサマリーと、印象に残ったところだけ書いておこうと思う。


伊豆を旅行してた学生さんが、道すがら旅芸人の一座と出会う。かれは一座の踊り子に恋をしてしまったので、頑張ってかれらの旅の道連れに加わる。一緒に天城峠らへんから下田まで旅をする。そこで旅費が切れちゃったんでお別れ。みたいなお話。
いや、高尚な文学作品にこんなツッコミも無粋だとは思うが、ストーカーじゃねえか。いやいやでも、ついつい好きな子と帰り道を合わせちゃったり、同じ選択授業を選んじゃったり、そういうライトなストーカー経験は俺もあるしなあ。「ストーカーじゃねえか! でも分かる、分かるぞ青年よ」とか言いながら読んでいた。
印象に残った点といえば、踊り子ら旅芸人一座が、先々で汚いものみたいに扱われてたところかな。まさしくルーマニアにおけるジプシーとおんなじ風情だったぞ。ちなみにかれが突然の同行者だったのにも関わらず一座に溶け込めたのは、かれが旅芸人という人種にまったく偏見をもっていなかったため、というようなことが作中で説明されていた。川端さんが主人公の恋の相手として旅芸人を設定したのは、そういう理屈付けによって主人公がヒロイン一行に自然に参入できるようにするため、みたいな構造的な理由があったのかもしらんね。

あとあれな、やっぱり文章が時代がかっていて読みづらい。時代がかっているというのはつまり、現代とはちと異なる文章的・社会的常識を基にしているということだ。「一口でも召し上がって下さいませんか。女が箸を入れて汚いけれども」程度なら「あーはいはい女性が卑下されていた時代なんだね」と軽く理解できる。だけど、たとえば同じ本に収録されている短編『温泉宿』の一章なんかもう、マジに理解できない。文章構造がよくわからん。実はこれのあとは夏目漱石の『坑夫』あたりを読もうと思ってたんだが、1930年くらいの文章でKONOZAMAなんだからそれは見送ろうと思う。ちなみに『デミアン』は1920年くらいだが、邦訳が1960年くらいだから読みやすい。


ところで『伊豆の踊子』って短編小説だったのな、知らなかった。いくつかの出版社から出ているが、『禽獣』というやつが読みたかったのでそれの収録されてる新潮社を選んだ。