これは友達の話なんだけど、その友達には親愛なるルームメイトがいるのだよ。そいつはそのルームメイトを尊敬しており、ルームメイトがあすこへ行くよと言えばあすこへ行き、あれして遊ぶよと言われればあれして遊んですごしている。尊敬しているから、無条件に従うというマイルールをもっている。ぶっちゃけ受けた時点では意味不明な指示もあるが、指示に従うことでいいことが起こったりよい気分になったりすることが経験的にわかっているから、無条件に従うことにしている。きっと友達は、この先、その指示でちょっと不都合が起こったとしても、勝手に理屈をつけて「それはいいことだったんだ」ということにしてしまうに違いない。それはもはやひとつの宗教と言っていいだろう。

友だち曰くそれは非常に楽だという。なぜなら行動に責任が伴わないからだ。もし従った結果ヤなことがあったとしても「あの子の為だから仕方ないな」と消化できるし、「これはきっとよいことに繋がっているんだろう」と考える。これは実際有効なライフハックでもある。

その宗教を得て、友達は「向いている・向いていない」という言葉を使えなくなったという。「自分はアウトドアとか向いてないから」とか「パーティとか向いてないんだよねー」とかの「向いている」のことだ。使えなくなった。なぜか? だって親愛なるルームメイトがやることに決めたらなんであれやるからだ。どうせやるなら、向いてるか向いてないかなんて考えることは無意味になる。なんでもウェルカムだ。なんでもやるようになると、意外となんでもできることに気付く。「向いている・向いていない」で行動を縛っていたころに比べて、視野は大きく広がったと言えるだろう。

ああでも、視野については褒めるばかりにはしないぜ。視野が広がったのはあくまで親愛なるルームメイトからの指示の下に限っての話だ。絶対に従う者をつくると、他の者には従わなくていいという許しも発生する。絶対的存在の光は、非絶対者を影の中に落とすものだ。

で、だ。友達は自分の生活が宗教ともいえることに気づき、宗教の素敵なところを見出したという。まあ、まさに上述したことだ。何かに準じるというルールをもつことは、責任の放棄である。責任がなくなるというのは楽なことだ。何かに従うということは、決して思考の狭まりだけを意味するわけじゃない。てかひとりで全部決めてたって、思考は狭まるもんなのだ。宗教は視界を狭めるかもしんないが、それはひとりでいた頃とは別のところに向かって狭まるのだ。そこはおそらく、ひとりでは行けなかった場所だ。



これを書くのは、いま「宗教? げぇ」と「宗教、素敵!」の境界にいると感じたからだ。今の俺は、「責任の放棄を続けてたら意志がなくなっちゃうんじゃねえの」という宗教への否定的思いと、「いやでもそれがラクなんだよぉ」という肯定的思いをどちらも心で味わえている。何かの境目にいるときの思いというのは、なかなか貴重だ。すこしずれただけでどちらかにどっぷり浸かり、片方の思考でしか考えられなくなっちゃうからだ。