俺がいつも通り感情論をばっさばっさ切り捨ててたらそんなことを訊かれたので書く。
まず何度も書いているように、まずもって、いのちをだいじにする理由はいのちをだいじにしないといけないというルールがないと成り立たない。そして俺はそんなルールはべつにないと思うが、でもいのちをだいじにする理屈は思いつく。もったいないからだ。命の可能性は無限大だからである。まあ可能性自体はそのへんのゴミクズにもあるんだけど、その汎用性は比べるべくもないだろう。しかもあらかじめ与えられていて、かつ意外と完全に思い通りになる命というのは少ない。たまに死ねといえば死んでくれるヒトがいないでもないけれど。elonaでいう願いの機会みたいなものだ。逃すにはあまりに惜しい。そういうわけで「大事にしないといけない」というよりは「えっ何捨ててんのバカ?(笑)」というのが感覚的に理解しやすいはずだし理に適っているはず。
とはいえ人間だし、とにかく捨ててしまいたいときもあると思う。俺だってelonaで願いを引いたとき「クソー願いがまったく決まらん。こんな悶々するならいっそ引かないほうが」などと思うことはあるが、そんなときはwikiや他のヒトの例を見たりするわけだ。と、いうのがいうなれば「視野を広げる」ってことなんじゃねえの? 俺にもモラルはあるので自殺者に「視野がせめえ」などと言うことは出来ないけれど、防ぐためにはということを考えるとやはり視野の拡大を挙げざるをえない。

よって、なぜ死なないのみたいなことを訊かれたら惰性なんてだせえことを答えるんじゃなくて、もったいないからと言ったほうが大義名分もたつと緑さんは思う。まあそもそもその問い自体も成り立つか微妙なんだけれど。

というかelonaが分からないヒトはゴメン。願いとゆーのはまれに訪れる、好きなアイテムを神様にもらえるイベントみたいなもん。