親愛なるルームメイトが貸してくれたので読んだ。貸りたとき、緑さんは言った。「なんだ。これって短編なの? 短編苦手なんだよねー、感想文を書くとき困るから。全部のお話のサマリを書こうとすればすげえ分量になっちゃうし。しかも目次を見たところ、表題を冠した短編が含まれてるタイプじゃん。苦手苦手。本の題名を冠した短編があると、それがメインで、他のはオマケみたいに思えてきちゃうからさー。」……いや、人から借りたものにどんだけ文句を言うのだという話だ。けれど、まえがきを読んだら一気にひっくり返されて笑った。

  • 本書のモチーフはタイトルどおり「女のいない男たち」だ。(中略)この言葉をひとつの柱として、その柱を囲むようなかたちで、一連の短編小説を書いてみたいという気持ちになっていた。
  • 最後に雑誌のためではなく、単行本のための「書き下ろし」というかたちで短編『女のいない男たち』を書いた。考えてみれば、この本のタイトルに対応する「表題作」がなかったからだ。そういう、いわば象徴的な意味合いを持つ作品がひとつ最後にあった方が、かたちとして落ち着きがいい。ちょうどコース料理のしめのような感じで。

俺のアホな文句が全部潰された。この短編集は決して寄せ集めじゃなくて、テーマの定まったコース料理だったのだ。そういうことならば短編集っていうかひとつの作品だと思って鑑賞していいだろう。というわけで今回は簡単なサマリと、このコース料理で提示されている「女のいない男たち」ってのはどういうもんなのかなーってことを考えてみる。



『ドライブ・マイ・カー』の家福さんは、奥さんと死別した。奥さんは赤ちゃんを流産して(三日目まで生きたから流産ではないのかな?)、浮気を始めて、病死した。家福さんは奥さんがどうして浮気をしていたのか、ずっとわからなかったのがしこりになっていた。
『イエスタディ』の木樽くんは、ずっと一緒にいた幼馴染と離別した。ふたりはとても深く仲良しで、心のどこかに相手だけの場所をもっていたが、お互いに「この相手以外の世界も見てみたい」という、回り道の希望ももっていた。幼馴染のほうがその好奇心で他の人とセックスをしたのをきっかけに、ふたりは離れ離れになった。
『独立器官』の渡会さんは、深く想いを寄せていた女性に手酷くフラれて餓死を選んだ。相手の女性は既婚で、渡会さんとは浮気だった。彼女は最後に渡会さんでもなく旦那さんでもなく、ろくでなしの男とくっついた。渡会さんは都合よく利用されただけだった。
『シェエラザード』の羽原さんは、まだ女を失ってはいない。だけどこの関係は誰かに気まぐれに与えられたものであり、それが誰かの気まぐれで不意に失われてしまうことを理解している。
『木野』の木野さんは、奥さんの浮気が原因で離婚した。浮気について怒りは湧いてこなかった。赦しもした。だがあとになって、自分がとても深く傷ついていることに気付く。



『シェエラザード』からの引用になっちゃうのだけど、結局、このモチーフは以下のようなことを表しているんじゃないかなあ。

  • 女を失うというのは結局のところそういうことなのだ。現実の中に組み込まれていながら、それでいて現実を無効化してくれる特殊な時間、それが女たちの提供してくれるものだった。(中略)それをいつか失わなくてはならないであろうことが、彼をおそらくは他の何よりも、哀しい気持ちにさせた。

ストーリーの中で女を失った男たちは「特殊な時間」を失ったことで現実に直面することになる。のだけど、これまで現実が無効化される時間に慣れていたせいでうまく現実と向き合えないんじゃないかな? そのせいでずっとしこりが残った生活をすることになっちゃったり、餓死したり、傷ついた自分の心に無自覚になっちゃったりしたのだ。

うーん、こんなところかな。このテーマ、共感できなくてよくわからない。先日の『武器よさらば』で書いた感想と少し通じるところはある。あの感想文では、「小さく完結した世界は強い」「ぼくがいて、きみがいる、それだけで完結した世界は強い」「ただしどちらかがいなくなると壊れる」「世界の完結性の責任の属する先が増えれば増えるほど、世界は脆くなる」みたいなことを書いた。このテーマについて思うこともそれと同じ。こういった脆さを回避するための方法として提案できるのは、ひとりひとりが完結した世界をもち、他者とは国交的な付き合いをもつことだ。ぼくの王国と、きみの王国をもつことだ。

ちと話がそれるが、「私も特別になりたい」と言う女の子と昔あったことがある。彼女はオリジナリティみたいなものを求めていた。誰もが心に抱くことだと思うけれど、それをはっきり口に出す奴が珍しくて、力になりたいと思った。自分の望みをはっきり口に出す奴には手厚くしたくなる。結局彼女は求めていたものにはなれなかったと思う。彼女は大きな世界に属していた。小さな世界で完結していない奴は、何かよくないことがあったとき人のせいにする(ことができる)。人のせいにする奴は、人のおかげじゃないと幸せになれない。自分の芯が他人に拠っているということは、独立性がないってことで、オリジナリティがないってことだ。俺は思うのだけど、オリジナリティが欲しいなら、いろいろなものを足していくんじゃなくて、いろいろなものを捨てていくべきだ。

本の話に戻る。文章はやっぱり村上春樹で、整頓されて清潔な文章。大好きだ。とくに『ドライブ・マイ・カー』と『木野』が気に入った。『ドライブ・マイ・カー』については、おじさまと女の子がずっと会話してるだけの情景を、なぜこんなにスマートに書けるんだ? って感じ。ああ〜、心の中の本棚が整頓されていくぜ〜。ジャンルごとにあいうえお順に並べられていく〜。『木野』についてはもうとってもグッドだぜ。村上春樹長編と通じるところのある短編だった。つまり、なんかすごい力をもった立ち居振る舞いスマートな人が出てきたり、象徴的な動物がわらわら出てきたり、大事な台詞が話の中でなんべんも回想されたり、暴力的なシーンや性的なシーンがすごく清潔に描写されてむしろ気分よくなったり、っていういつものアレ。
クソッ、やっぱりこの人の作品はいいなあ。